百貨店にはそれぞれ固有の個性がある。その個性にファンがついている。イメージで語ると三越はトラディッショナルな富裕層のファンが多く、伊勢丹はアグリッシブでおしゃれな若者のファンが多いという感じがする。
しかしこれらはイメージであって、実際には顧客を分析することによって実像が見えてくる。
大事なのはデータに表現されない数値であって、トランザクションデータでは分からない部分こそが大切なことである。
年齢層別、性別に顧客分布をしてもこれが当社の顧客像ということにはならない。顧客像を知るためにはもっと精緻な情報が得られる調査方法が必要だ。こうして得た顧客像に対して何をしていくかが問われるのである。顧客像は一つということはない。いろいろな顧客像がいるから、それらを明確にしていくこと、もちろん母数の多い順に顧客像を並べることが大切なのはいうまでもないことだ。
さて、百貨店は自分とは何かというCI活動を再度行なわなければならない。
自分達が考える百貨店とは何か、自分とは何か、自分はどこに進むべきかという定義活動のことである。伊勢丹が強みを発揮した理由は実はこの定義を完了させたことにあると私は思っている。
伊勢丹を創業した小菅家が経営から離脱した後、伊勢丹はピンチを切り抜けるために自分探しを徹底的に行なったと私は見ている。
私はある伊勢丹人たちの議論に加わったこともあるが、当時、百貨店は入館料を取るべきである、目指す姿は世界一の専門店群を構築することだと議論したことを憶えている。
こうした議論がいくつもの定義を産み、定義したものこそが伊勢丹にとって宝物になったのだと私は思っている。
いま、百貨店業界では経営統合、業務提携などが進んでいるが、そもそも、その前に自分探しの旅にでたのですか。そうして旅の結果、何かを掴んだのですかと問い質したい。
マークを変えるなどというCIではなくて、自らの顧客像に向かって「私達が考える百貨店とはこういうものです」「私達はここを目指します」と宣言資、愚弟的に見せることができるようにすることが大切と思うのである。
その上でCIが一致する百貨店同士が提携するのであれば、その提携は生きてくると思うのだが、CIが一致しない百貨店同士の提携は、社員にとっても顧客にとっても取引先にとっても、結局は裏切ることになるのではないかと思うのである。
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