中国が好景気であることをこのブログで書く必要はない。ここ大連でも私達が宿泊したホテルのロビーにはロールスロイスファントム、フェラーリなどの高級車が展示されて、注文をしたお金持ちが、オーダーしたクルマの前で記念撮影をしている風景が日常にある。
日本が統治した時代の古いけれど美しいビルディングと、乱立する高層ビルが混在した大連の街からクルマで40分も遼東半島を先端に向かって走ると旅順(りょじゅん)に到着する。
中国の都市ならほぼどこでも同じように、都市から少し離れると街並みは昔ながらの風景に変わるものだが、旅順もやはりそうであった。人々の顔はすすけて黒ずんでいる。露店に人々は集まり何かを探している。大連のホテルに並んでいたロールスロイスやフェラーリとはまったく無縁の人々が、この街では暮らしていた。
旅順はロシア語で遠い地という発音を中国語に変えたものである。
明治時代、世界は強い国が弱い国を占領し、植民地化することが堂々と許された時代であった。帝国主義が跋扈(ばっこ)していた時代である。帝国主義とは軍事上・経済上他国または後進の民族を征服して大国家を建築しようとする傾向(広辞苑)である。当時は清国も広大な面積とは比例せず皇帝政治の腐敗とともに弱い国になっていた。
ロシア帝国は不凍港を求めて南下戦略をとった。目的は領土拡大である。ロシア帝国はヨーロッパを南下する戦略を立てトルコと戦争を繰り広げて勝利したが、他の欧州大国との対立があって南下戦略をアジアに向けた。
日本帝国が朝鮮を統合したことに起因した日清戦争が勃発し日本が勝利したことは歴史が証明している。遼東半島を獲得した日本帝国に対し武力を背景にロシア帝国はフランス帝国、ドイツ帝国とともにこれに干渉しロシアは遼東半島を横取りした。これが三国干渉である。そしてロシアは念願の不凍港を手に入れ、旅順港に艦隊を配備した。さらに陸地には強靭な要塞を作った。この地をロシア人はリョジュン(遠い地)と呼んだわけである。
ロシア帝国は、弱体化している清国に圧力をかけ清国の領土、朝鮮半島、さらには日本をも手中に収めるべき南下戦略を完成させようとした。日本とロシアは1904年2月に宣戦布告し戦争になった。これが清国と朝鮮半島を戦場にして繰り広げた日露戦争である。そして旅順は日露戦争の大舞台となった場所である。
ロシア軍の要塞を背後に抱えた小高く、形の美しい高地こそが激戦の地二〇三高地である。
二〇三高地に昇ると脚下にロシア艦隊が基地としていた旅順港が望める。入り口が急に狭まっていて天然が作り上げた要塞といわれていた、三国干渉の末、ロシア帝国が横取りをして手に入れた念願の不凍港である。
三年は掛かるだろうといわれていた旅順の戦いを将軍乃木希典は半年で勝利する。
一方、海軍は旅順港の入り口に船を沈没させて港からロシア軍艦の出入りを阻止する。
そうして、東郷平八郎率いる日本艦隊と、喜望峰を回って日本海にたどり着いたロシア艦隊との戦いが始まる。「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮闘努力せよ」は東郷平八郎が発した鼓舞名句として知られている。
この戦争で日本が負けていたら日本は今ごろロシアの属国になって私達はロシア語を話していたに違いないのである。中国とロシアの国境線も大きく塗り替えられたことであろう。満州はロシアのものになり、朝鮮半島もロシアのものになった。ロシア国境から満州に至る広大な清国の領土もロシアの領土になったものと私は推測をする。
「皇国の興廃この一戦に在り」はまさにその通りであったのである。ちなみに乃木神社は乃木希典を、東郷神社は東郷平八郎を神として祭った神社である。乃木希典がどのような人であったかは乃木神社のHPに詳しく書かれているのでぜひ一読をお薦めする。
以上は日本人が解釈する日露戦争の歴史話である。
中国では二〇三高地を反日教育の場として使用している。
小学生低学年の団体が次々と二〇三高地に昇ってくる。道筋には日帝が中国を侵略したことを詳細に記す説明文が立ち並ぶ。先生は日本侵略の歴史をこどもたちに説く。
日露戦争後、両国の戦死者を慰霊するために日本は二〇三高地に落ちていた弾を鋳造して慰霊塔に爾霊山と命名し建立した。爾霊山は二〇三の意味である。中国は日帝侵略の証拠として反日活動に利用しているという解釈もまた日本人的なものである。
人間の空想は時を超えていつの時代にでも行き来できる。たどり着いた時代に何があったか、きっと無数に存在する項目のうち、いくつかの項目をつなげればそこに自分が作った歴史話が生まれる。
私はこの旅を友人と二人でしてきた。ホテルのコンシェルジェ・デスクに依頼して旅のあいだ付いたガイドは日本語が上手な中国人女性であった。
彼女は私達に向かって「昔の日本人は中国に侵略をして私達中国の国民を苦しめました。本当に悪かったのですよ。あなた達も反省をしないといけないですよ」と笑顔で語りかけてきた。
『確かに御国から見ればそうであったでしょう。しかし日露戦争で日本が勝利したことは、今となってみれば中国にとってよかったことにもなりますね。日本が負けていたら日本もそうですが中国もロシア領土に組み込まれてしまった可能性を否定できませんよ』
私はつい余分な話をしてしまったようだ。賢明そうなガイドの顔が険しくなった。「あなた、それなら日本が中国でやってきてきた数々の悪事をどう説明するのですか。それも中国人にとってよかったことというのですか」私はすまなそうな顔をして沈黙するしか手はなかった。
やがて私達のクルマは旅順から大連の街に戻った。二〇三高地に至る道筋とロシア軍の要塞を除いて、旅順は日本人の立ち入ることを禁止している土地であった。
日本人が作り上げたという大連の高級住宅地にある静かな街並みを通り過ぎると古いビルの前にクルマは停まった。
ガイドは私の顔を睨みながら、こう言った。
「ここがあなたの大好きな満鉄本社であった建物です」
さすがにクルマを降りて撮影をすることは控えて私はガイドに笑顔を作ってこう返事をした。『そうです。満鉄には世界観で仕事をした方たちが幾人もいました。親しい友人のお父さんもその一人でした。その方が勤務していた場所を見ることができて本当にうれしいです。案内していただいたことを感謝します』
同行した友人は、私の発した意味がわからずにいたが、感謝しますと括ったことでガイドとの仲が険悪にならないと思ったのか安堵をして、「服部さん、夕食は飛び切り旨い海鮮料理でも食べましょう」と話を拾った。
百余年前の日本人がこの地で戦ったことが契機となって現在の、世界地図における国境を定義したわけである。いま52歳の人が誕生した年月日を起点に今まで生きた時間だけ遡れば、この地は日露戦争の戦場真っ只中にある。
日露戦争に勝ってロシアから遼東半島を取り戻した日本は列強の仲間入りを果たしたわけだが、当時の日本が作った古いビル達に向かって何かを語れと問わば、彼等は饒舌にたくさんに見てきたことを語りだすだろうに、歴史の生き証人たちは何もかも拭い去ってただ沈黙しているのみである。