桜が美しいのではなく、桜を美しいと感じる脳の働きで桜が美しいと感じる。だから美は認識されるものだ。地球が美しいと感じるのは美しいと感じることができる人間が住んでいるからで、人間がいなくなれば美しいと感じる生物はいなくなるから地球は美しい星とは言わない。
私は紅葉のさなか、福島県の浜通りから三春に抜けて郡山まで仕事でドライブをしたことがあった。途中の森林は、紅葉が美しくて私は息を呑んだ。
これまで年齢相応に数多くの紅葉を見てきたつもりであったが、感動は経験をはるかに通り越していた。
白河を越せばみちのくである。みちのくは陸奥と書く。文字通り陸の奥に陸奥はある。この地は昔は蝦夷地と呼ばれていた。自然と一緒に暮らした人たちは今も自然の恵みを受けて生きて暮らしていた。
この地が放射能汚染を受けて悲鳴を上げている。最悪のケースでは半径数十キロの範囲は立ち入り禁止地域になる。それも数十年間だ。
この地にもやがて桜が咲き、盛夏を迎え、そして森を染めるあの紅葉が始まるだろう。被災者は自然の営みと一緒に生きていたが、これからどうなるのか、誰も予測はつかない。
専門家なる人たちが楽観的な予測をし、ロシアで起こった事故とは根本的に違うと公言していたがチェルノブイリと同じレベル7になった。保安院の西山氏は出ている放射能量が違うと反論をしたが、東電はチェルノブイリ以上かもしれないとレベル7を認めている。
この数値が発表された時に、悲鳴が上がったのは被災地に住む人々であった。もう家には戻れない。この声はまさに悲鳴である。
今年の桜を美しいと思わなかった人は多くいると思う。それは桜が美しくなかったのではなく、自粛をしたのでもなく、脳が震災ショックから抜けきれていなかったからなのだ。各言う私もその一人である。播磨坂の桜並木をくぐっても美しいと感じないのは震災ショックから抜け出していないからである。