先日某百貨店のA部長と話をした。話題はこのメールマガジン(MM)で取りあげた三越と伊勢丹の合併論になった。A部長は「伊勢丹は理の塊のような百貨店、三越は伝統のなかで育った百貨店、双方が一つになるのは考えにくいこと」と語った。
それに対し私は「一言で言えば、言葉が通じ合わない共同生活」と推測で語った。
私は最近、理性について関心をもって調べている。理性とは哲学の命題になるので、そこでデカルトが自書で書いた命題「我思う、故に我あり」が今週のMM冒頭を飾ることになる。
故に我ありとは存在意義のことである。これをマトリックス縦軸に置こう。存在意義を理念と置き換えてもよい。
一方、横軸は我思うになる。我思うは、合理的な考えや、あるいは伝統を重んじる考えになる。
我は人の数だけいるのだから、思い方も人の数だけあっても不思議ではない。
合理とは理性とは違う。
合理を広辞苑で引くと道理に適っているとある。
道理を広辞苑で引くと物事のそうあるべき筋道とある。
非合理を広辞苑で引くと知性ではとらえられないこととある。
感性を広辞苑で引くと思惟の素材となる感覚的認識とある。
理性を広辞苑で引くと実践的には感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力とある。
以上は用語の定義を、広辞苑を借りて行なった次第である。
人間は複雑系である。きわめて理性の高い人が超自然的啓示に従ってしまう。オウムに参加した優秀な頭脳を持った人たちがそれに当たる。
だから三越と伊勢丹の統合委員会では、合理を求めて伊勢丹的な理性と三越的な感性がぶつかると表現してしまうのはあまりにも人間を単純に考えた論理の展開であることは承知している。
しかし我思う、故に我ありであり、我は複雑系である。ここが問題なのである。
合理を理性で解決しようとする人に対して、感性(直観力)で解決しようと考える人から見ると疑問点が残る。
それは理性の展開方法は演繹法か帰納法あるいは三段論法など幾つもあるが、議論に参加する人たちの多くは哲学者ではないので、議論が公理ではなく信じる、信じない、好き、嫌い、やりたい、やりたくないなどの感性や仮説からスタートしているところである。
理性と思っている人たちの多くは実は感性や仮説で物を語っているのである。
哲学者は命題を持ってそこから展開する。
数学者や物理学者は公理を持ってそこからスタートする。
哲学者や数学者でない人たちは感性や仮説をスタートとして論理を展開し、スタートの結論に戻そうとする。「嫌いだ」がスタートで、だから「やりたくない」 が到着である。途中に存在する理とは嫌いだとやりたくないをつなぐ理屈である。決してこれを理性とはいわないはずである。しかしこれをもって合理的な解決 としているところが理を振り回す人の中にはある。
直観力で物事を見る人は一般人が語る理性的な思考展開の限界、つまり思考の原点になる命題が感性や仮説、時には情念からスタートしていることが手を取るように見えてくる。だから話がかみ合わないのである。
私は哲学的に考える理性と、一般人が考える理性とに大きな差があることを発見した。
ビジネスで考えると合理の追求とは道理に適っているかどうかの追求であり、道理とは物事のそうあるべき道筋のことである。合理を追求するに理性が感性より優れていることは何一つないのである。
私は理性をWikipediaその他で調べた結果、及んで知性の意味を正しく知ることになった。また広辞苑を開くことになるが、知性とは感覚で得られた素材を整理統一して認識に至る精神機能とある。
私の先輩でこのような人がいた。
感性で訴えるさまざまな事柄をこの人は、十分に咀嚼し合理で整理して合理的に理解し解釈し、答えを理で返す人であった。この人は実に多くの人から尊敬を集めていた。
テレビで未開の部落にテレビカメラが入ることがある。ここでは長老がいて部落で起こった問題を経験に基づいて合理的(道理的)に判断をして解決をする。日本では頭がよさそうな人を知的な人というが、この長老こそが知性であり知的な人である。
私は命題を持って論理的に真偽を議論することはやるべきだと思う。しかし仮説を論理的に展開しても答えは仮説であり、真説にはならない。
私がこのMMで言いたいこと。大事なことは、上位を目指す人は知性を目指すことである。
理性と知性は混同されるが、まったく別のものである。日本では合理的に解決をしようとすると理性と感性がぶつかり相容れないことがあるが、それは感性だけでは道理的な理由が付かないことと、同時に理性もスタートが仮説か感性時には情念であるから合理(道理)にたどり着かないだけのことである。これらを解決 するのは知性なのである。
もしもこのMMを読んで興味が生じたらGoogleで「理性」を検索し、Wikipediaを開いてみると良い。さらに興味を持ったら今度は「哲学」を検索すると良い。
自分の考えに近い哲学者がいて、これまで敬遠していた哲学に親近感が持てるようになるものだ。
哲学って案外と面白いな、というのが最近の思いである。
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