奄美大島にはたくさんの友人がいる。三連休を利用して久しぶりに奄美へ行こうと思い立った。
笠利町に住む親友の泰さんに連絡を取ると「待っているよ、後は任せておいて」という返事があった。
奄美大島行きの直行便は一日に一本しかない。羽田を朝出て、奄美を夜便で帰る。
泰さんは奄美空港で待っていた。「これから加計呂麻島へ行くよ」泰さんは、はちきれんばかりの笑顔で言った。
瀬戸内町の近く、クルマは小さな道路標識を目印にして山道を左折した。そこから嘉徳集落までは家一つ無い道を下りながら走った。嘉徳は元ちとせが生まれ育った小さな集落である。
道の終点に嘉徳集落は在った。泰さんは道端にクルマを止めてここから先は歩きましょうと私を誘った。
嘉徳小学校があった。むろん廃校となっている。嘉徳小学校には大きな木が一本在った。元ちとせはこの木を見て育った。撮った写真を見せてあげればきっと喜ぶに違いないと思った。
集落は十軒ほどであった。集落からさらに降りて行くと海があった。砂浜を守るための木が砂をしっかりと掴んで生えていた。原始の海がそこにはあった。集落の人以外は訪れることが無い海であった。私も見たことがない海の風景であった。
「奄美に南極探検隊に参加した人がいるのだけど、この海は南極の風景だといっていた」と泰さんは一緒に浜に立って語った。
BOOMが島唄を作って歌ってから、島唄とは沖縄の唄と認識されて混乱しているが、奄美民謡を島唄という。正確にはシマ唄である。シマとは集落を指す。奄美群島はかつて被支配の歴史を持つ。奄美世(あまんゆ)から始まり、那覇世、大和世、アメリカ世、そして今は再び大和世にある。島人にとってはシマごとの結束が命綱であった。シマごとに固有の文化が生まれた。シマごとに神がいた。そしてシマごとに生まれた唄がシマ唄である。
沖縄の三味線と比べて奄美のそれは一回り小さく、沖縄では水牛の角で弾くが、奄美では細い竹ひごで弾く。焼き鳥の串を小さくしたものと思えばそうは外れていない。友人は沖縄の奏法はストリート音楽で、奄美の奏法は風に乗って唄うようであるといった。
沖縄民謡は琉球音階でドミファソシだが、奄美民謡は本土と同じヨナ抜き長音階でドレミソラである。奄美民謡は非常に繊細で音楽的に高度である。歌唱法も高度なテクニックを必要とする。だから奄美民謡を歌いこなした唄者から民謡日本一が次々と誕生する。
元ちとせは上田現を得て実力派スターになった。上田現は奄美の風習を、魔法を使って美しい言葉と音楽に変えた。元ちとせは姉妹神(うなりがみ)が乗り移ったようにおもいきりの奄美力で演じた。
私はこの原始の海辺に立って元ちとせを想った。もともと元ちとせは姉妹神ではなかったのかと思った。
それから元の道を戻って瀬戸内町古仁屋に到着した。クルマを港に置いて海上タクシーで加計呂麻島へ渡った。人口1600人の島でありながら驚くべき文化を蓄えている島である。
南方からの文化、平家落人による文化、琉球文化、奄美固有の文化、本土文化がこの小さな島でぶつかってモザイク文化を醸し出している。写真の船が海上タクシーである。乗った「みなみ号」は600馬力のエンジンを積んで高速で走る。
一足先に渡っていた友人が手配したクルマで生間(いくんま)から諸鈍(しょどん)に行った。諸鈍の浜はディゴの並木で有名であるが、それよりも住いの生垣が美しい。
この集落は生垣の集落であった。私は諸鈍集落に住む人々の精神的な豊かさを知った。諸鈍は平家落人の文化遺産といわれている「諸鈍しばや」で有名な集落である。資盛神社もここにある。平姓も多い。この夜、私達はスリ浜の近く、渡連集落の海辺で小屋を借り、釣り上げた魚を肴にして黒糖焼酎を飲み明かした。
翌朝、我々は笠利に戻った。別の友人が船を仕立てて笠利の港で待っていた。トローリングの支度はできていた。太平洋の大海原を舟は走り続け幾本かのソーダ鰹を釣った。
夕方に泰さんの家へ戻るとたくさんのイセエビが待っていた。それに大きなブダイもあった。私が来るというので友人の一人が前夜、海に潜ってたくさんのイセエビを獲って晩餐の支度が出来上がっていたのであった。そこに釣ったばかりのソーダ鰹が加わった。
しばらくすると民謡日本一に輝き、その翌年日本民謡グランプリに輝いた中村瑞希さんが母さんと一緒にやってきた。奄美の民謡は掛け合い唄だから、必ず二人で唄う。
2002年に奄美群島復帰50周年記念の大イベントが開催された時、私はセカンドイベントであった世界奄美人大会で基調講演を行なった。講師である私を紹介したのが中村瑞希である。それ以来 お付き合いが始まって、こうして縁が続いている。中村瑞希はレコード会社の誘いを断って、奄美大島で奄美民謡を唄っている。
日本一の艶ある声でシマ唄を唄い、六調を弾いた後、服部さんはいつお帰りですかと訊ねた。私は明日帰ると告げた。中村瑞希はそれから最後の唄を唄った。「行きゅんにゃ加那」であった。
加那とは恋人のことである。行ってしまわれるのですか。私と別れて行ってしまわれるのですか。と惜別を哀しみながら人を送る唄である。
翌日、私は旅の余韻をホテルで過ごした。私は午後3時過ぎまでホテルのプールサイドで何もせず時間を過ごした。それから泰さんと二人で笠利町の宇宿小学校へ出かけた。この学校にも嘉徳小学校のようなシンボルツリーがあった。校長と会って静かな会話を交わした。昨夜駆けつけてきてくれたメンバーの一人であった。
帰り便はたいがい19時発である。飛行機は通路側の席に座ることを常にしているが、奄美から帰る時は必ず前方左側の窓側を選ぶ。泰さんの家は空港のすぐ近く、海に沿ってある。離陸し急上昇をする飛行機の左窓から泰さんの家が良く見える。それを知っていて泰さんは家中の照明を付けてくれる。庭を照らす大きな照明塔も全開にしてくれる。
だから東京と比べ遅い夜の帳が下りて、西の空が夕焼けで真っ赤に染まっているこの時間にでも、ひときわ光っている泰さんの家がすぐに分かる。彼はそこまでして機上の私に別れを告げている。
奄美大島は山と海だけの島である。しかしひとたび島人を知っていれば島の様子はがらりと変わる。つまりは、人は人との関係で成り立っていることを心の底から思い知らされる。小さな旅の寄り道が連続して、人生は成り立っている。私は遠ざかる泰家の明かりを、からだを乗り出して追いかけ、やがて機内サービスの珈琲を飲みながら、生きていることは、これほどうれしいことなのだとしみじみと思うのである。