学生の頃、学校の単位はゼミナールを残して3年間で取得したために、京都で住み込みのアルバイトをしながら半年以上も暮らしたことがある。今から40年以上前の、のどかな頃だからできたことでもある。
そんな御上りさんでも京都の町をすぐに覚えたのは京都市内が条里制の町であったからでその後も京都へは延べで数えると百回以上は訪問しているから、京都は親しく詳しい町の一つで、いまでも若い頃の記憶は鮮明にあって、自分でハンドルを握っても、町中をすいすいと走れるほどである。
今年、東京の桜が終わって東北に開花が移動した時期に、私は京都の桜を見るために日帰りの一人旅をした。桜の開花時期は西から東に進むが、京都は東京が終わっても蕾が開かないこともある。
まだ、早いのではないかと気を揉んだが、京都駅に降り立ち曇り空で冷え冷えとした空模様を見ると、やはり咲いていないだろうと予感があった。
私は新幹線に揺られながら記憶にある桜をいくつか思い出していた。
伏見醍醐寺の桜。豊臣秀吉が花見の宴を行なった寺である。各藩は花見に合わせてたくさんの桜を醍醐寺に奉納した。秀吉絶頂期の出来事であった。ついで秀吉が逝去したあとに、正室ねねが徳川家康に申し出て、家康の支援で建立した東山高台寺の枯れ山水庭園に咲くしだれ桜である。それから、祇園白川の桜。白川は琵琶湖を源流にして琵琶湖疎水から祇園を流れている。
京都の桜が美しいのは背景があるからだ。必ず歴史の背景があり、庭園の舞台に咲き誇る。だから人は当時に想いを馳せながら桜を楽しめる。
私はタクシーに乗って、すぐにこのコースを告げた。ドライバーは、今年は桜の開花が遅いと言った。タクシーは、私がかってなじみの道であったはずの道路を走った。東山通りから蹴上を山科方面に下り、大石神社前を抜けるころには、住宅は密集し風景は当時と比べると激変をしていた。
案の定、醍醐寺では桜の開花は遅く、二分咲きの様子であった。
「醍醐寺でこれだけですから北のほうはまだ蕾でしょうね」と私はドライバーに話し掛けた。ドライバーは雄弁に桜を語った。
「京都市の北部は土地が高くなっていて、その分気温が低い。東寺五重塔の宝珠の高さが京都市内北部の高度に匹敵する。だから北部はまだ咲いていない」ドライバーは話し好きな人であった。
私は高台寺に時間をかけるとドライバーに告げた。
秀吉が逝去したのは1598年である。秀吉の北の政所ねねは、出家し高台院湖月尼と称した。
そして秀吉の冥福を祈る場所を建立するように発願した。曲折の後1605年に高台寺が建立された。ねねはここで1624年に逝去するまで、この寺に住んだ。伏見城からねねの化粧御殿を移設し、そこに住んだのだから建礼門院のような哀しさは感じられない。
現代まで度重なる火災でいくつかの建物は焼失したが、御霊屋(おたまや)傘屋、時雨亭は創設時のままである。
私は方丈の庭に咲く二本のしだれ桜を堪能した。
日本を変えた一人の男が絶頂期に桜の宴を催した醍醐寺に三分咲きの桜を愛で、次にはその正室が男の冥福を祈るために建立した場所で三分咲きのしだれ桜を見て、満開になったらどのように美しくなるのかと想像をした。
その余韻を大切にするために私は近くの料亭、高台寺和久傳で、遅い昼食をとった。
ドライバーは、「祇園白川は少し咲いているようです」と戻った私に話し掛けた。
「調べていただいたのですか」と問うと、「仲間がいましたもので聞きました」と応えた。
花街祇園の桜も、高台寺の桜も変わりはないはずだが、祇園白川の桜は、花街の女性のようにどこかに秘密めいた寂しさを秘めていた。私は巽橋の中ほどで白川と料亭と桜を写した。ツガイの水鳥が白川にいた。
私の旅は高台寺で終わっていた。後は余韻と名残であった。食事をしながらこの旅の本当の目的は何かと自分に問うてみた。
桜を見ることか、秀吉の軌跡を追うことか。旅に出たかっただけか。全部違っていた。
自分の40余年前に、なぜ半年も京都で暮らしていたのか。それを思い出す旅であった。
理由は見つかった。旅に出る前に、一つの出会いと別れがあった。
そのことを思い出した。今から振り返れば旅の寄り道の一つに過ぎなかった。
往路は夜行急行列車での旅であった。なぜか京都を深く知りたくなった。
それで旅に出た。若いという字は苦しい字に似ているという歌詞の歌があったが苦しい旅ではなかった。
アルバイトの途中で腹痛が襲ってきた。バイト先の社長夫人は私を病院に連れて行かず、驚くことに拝み屋へ案内した。
中年の女性は私を拝みながら突然ご詠歌のような節回しで唄を唄い始めた。
「子を思わぬ親はなく・・・」
あなたの両親があなたのことを心配しているというお告げであった。
半年に及ぶ旅はこのお告げで終わった。
帰りは開通したばかりの新幹線であっけない帰京をした。
高台寺近くの料亭で昼食をとりながら、はるか昔のことを思い出していた。
こんな昔のことを思い出すための旅であったかと私は思った。けれどもとても懐かしくうれしいことであった。心のどのひだにこんな記憶が仕舞われていたのかと思った。
それから私は二条大橋東にある、なじみの漬物屋に寄って家族への土産を買った。花冷えの風が吹いてきて私は大きなくしゃみをした。感傷も秀吉も吹っ飛んでしまった。私は鼻をこすりながらマフラーを巻き直して、京都駅まで行ってくださいとドライバーに告げた。