私は山梨にとっておきの場所を持っている。行きたくなると電話を一本いれて列車に飛び乗る。新宿駅からかいじ(甲斐路)号は、毎時30分に出発する。
あと一ヶ月もすれば甲斐路は春を迎える。
いま甲斐路は梅が咲いているのだが、追いかけるように桜が咲き、桃の花が咲く。中央本線かいじは、桜並木をくぐるように甲斐路を走って山梨市駅に着く。
それから私はタクシーに乗ってほったらかしの湯を目指す。山の中腹にある露天風呂は、天気さえ良ければ盆地の向こうに富士山が見える。
昨年のNHK大河ドラマが終わって甲斐路は少し静かになったが、ここほったらかしの湯は観光バスが来るほどの賑わいを見せている。
山梨市には、たくさんの温泉がある。泉質からいうと鼓川温泉、岩下温泉、正徳寺温泉、川浦温泉、三富温泉などまだ他にもたくさんの良質な温泉を持つ湯治場や旅館がある。ただほったらかし温泉は開放感が桁外れで、それにこの後の楽しみが温泉を下った場所にあって、ついついほったらかしの湯を選んでしまうのである。
今ごろはハウスのイチゴが盛んでフルーツ街道はイチゴ一色であろう。タクシーは根津財閥が作った橋を渡り、まだ枯れ枝でしかない葡萄の畑を抜けて、桃の畑を抜けてフルーツ街道に入り、そうして山の中の林道を抜けるようにしてほったらかしの湯にたどり着く。
タクシーの運転手にはきっかり一時間後にこの場所へ来てくださいと頼んでおく。
それから600円の入湯券を買って温泉に入る。温泉は室内が1カ所、露天が2カ所あって室内がやや高温で身体は芯から温まる。露天温泉は何時間入っていてものぼせることがない。それほどぬるい。
天気さえ良ければ霊峰富士は目前にある。東京の銭湯ではペンキ絵で富士山を描いているが、ここは本物が目の前にある。だから観光バスが乗り付けるのかもしれない。しかしたくさんの観光バスが駐車していようと温泉に人は少ない。顧客はあっちの湯とこっちの湯に分散し、さらに湯上り後の飲食場に分散されている。たくさんの人が湯上りの上気した身体を生ビールで冷やしている。
私のお目当てもこの温泉のあとにある。
山梨市に北という地名があって、ここには窪八幡神社という西暦859年に建立されたといわれる重要文化財があるのだが、窪八幡神社の向こう三軒両隣に江戸時代から続く酒蔵がある。
この酒蔵は養老酒蔵といって180余年の歴史を持ち、建物も当時のもので、その屋根裏をスパッと広い一部屋にして、この厨房で女将が手料理を作ってくれるのである。これが180余年の歴史を背負い、とてつもない品格があって実に旨い!しかも東京での名店と言われる同等の料理と比べ価格は三分の一に満たず、ひたすら驚いてしまう。
行きたくなると電話を一本いれてというのは、この女将に電話をいれるのである。
二階の窓越しに黒い瓦屋根が見える。瓦は太陽の光を吸い込んで自分の光を放つ。
養老酒蔵には幾本もの赤松があって、太い赤松の幹の向こうに瓦屋根が見える。
酒は、酒蔵だからありとある酒がある。私は女将の料理を食べ、ここの酒を飲んで、瓦を愛でる。
私は友人を誘って養老酒造へいく。時には一人でも行く。
湯上りの身体に酒は効く。こうして至極の数時間を友人やこの酒蔵の家族と過ごす。
山梨の言葉は長野と静岡の言葉を混ぜたようで私は長野県人と静岡県人と同時に話をしているような錯覚に陥る。あ、そこは静岡弁!、あ、そこは長野弁。こんな楽しみ方が私はできる。それからひとときしてタクシーですぐそこにある山梨市駅まで戻る。そうしてタイミングよく到着する夕方のかいじで私は東京に戻る。わずか1時間30分に満たない時間で特急列車は私を都心まで連れ帰ってくれる。
まもなく桃の花が甲斐路の空気を桃色に染める。桃の名産地である春日井や一宮は空まで桃色に染まる。私は今の時期、山梨市の春が待ち遠しい。