マングローブと名前が付いた植物があるわけではない。亜熱帯、熱帯地方の河口塩湿地帯にできる林のことをマングローブという。
奄美大島では住用村にある、国定公園特別保護地域としてヒルギのマングロープ原生林が有名である。ヒルギとは植物名である。
私たちは、住用川からカヌーに乗って河口を目指した。河口は奄美大島のけがれない透明な海につながっている。ここにマングローブの林がある。
私たちは引き潮の時間を選んだ。満ち潮ではマングローブの林は海に浸っている。上陸するには引き潮の時以外にない。
住用川は引き潮の影響で、海に向かって強い流れになっていた。私達のカヌーはぐいぐいと引かれるように河口に近づいていった。猛スピードでカヌーは走った。
私は29歳のとき、奄美大島の海で「漂流」しかけたことがあった。ちょうど大潮の引き潮であった。海浜に一軒の貸しボート屋があった。舟はすいすいと沖に向かって進んだ。グリコの宣伝に一粒300メートルというコピーがあったが、一漕ぎ300メートルであった。恐るべきスピードで手漕ぎの舟が進むことが何を意味しているのか、若い私には分からなかった。
見る見るうちに海岸は遠ざかり、やがて舟は湾の外に出てしまった。ここは東シナ海である。
貸しボートには二人乗っていた。私たちは新婚旅行であった。秋であったが亜熱帯の太陽はじりじりと肌を焼いた。今と違ってペットボトルはなかった。
これは取り返しの付かないことになるぞと気づいた私は、急ぎ戻ろうと船首を海岸に向けて漕ぎ出したが、今度は巨人の手で艫(とも)をがっしりと押さえられているようで、いくら漕いでも舟は進まなかった。大潮の引き潮は急流のように舟を沖に向けて押し流していた。そこを柔腕の都会人が漕ぐボートの櫂力ではどうにも事態は改善しなかった。
海岸は遥か遠くに見えるものの手を休めれば舟は沖に向かってぐんぐん引っ張られていた。
一瞬、漂流が脳裏によぎってあせりだした。事実、舟は外海にでて漂流を始めていた。私は湾を構成する海岸に向かって左側の小さな岬に舟をつけようと判断した。それから懸命に舟を漕いだ。舟が潮の流れに抵抗するものの斜めに船首を向けたことで、わずかに進むようになった。
これがまさしく必死で漕ぐというやつである。必死とは必ず死ぬではなく、しにものぐるい、つまりは全力でという意味である。ことの真相を理解しない新妻は、私の形相がおかしいと笑っている。ようやく岬にたどり着き、そこで舟を離した。ここから磯を歩いて帰ると言った。ボートはどうするのと怪訝そうな顔が質問をしてきた。ボートは弁償する。怪訝そうな顔はもっと怪訝そうな顔になった。大潮の引き潮を遡ってエンジンを持っていない舟が海岸にたどり着くなんてことは絶対にできないと思った。
足元を見ると引き潮のため、海には驚くほど鮮明なさんご礁が、竜宮城のように美しく輝いて露出していた。このさんごの印象は、いまも頭から離れない。私たちは岬を歩いて海岸に戻った。歩くのも、舟で戻ると同じくらいに大変なことであった。「あんたたちもさー、歩いてこんでも舟にジーとしていればまたもとの海岸に着いたのにさー」みたいなことを誰かに言われたような気がする。貸しボート屋のオヤジは「弁償なんかせんでいい。上潮になれば舟は自然と海岸に戻ってくる」とニコリともせずに言ったような気がする。
私は住用川に浮かぶカヌーがすいすいと流れるように進んでいるので、35年前のできごとを昨日のことのように思い出し、帰りはきついぞと心を引き締めた。
引き潮で、海底は露出していた。海底のきれいなことよ。海底にはごみ一つなかった。
たくさんのシオマネキが露出した海底を歩いていた。
誰かがその一匹を手のひらに乗せた。
なんと、海底の低いところに道筋ができて、小さな川が流れているではないか。水は高きから低きに流れるという。海底であっても引き潮になればさらに川を作って海水は低きに流れているのであった。それにしてもなんと美しい海底。
ヒルギの若木も成長していた。落としたタネが自力でここに根付いたのである。流れに乗ってしまうとそのまま海に流されてしまうヒルギのタネは、運良く河口の海底に根を張ることができた。(画像クリック)
私たちは引き潮のマングローブを楽しんだ。
帰りは思った通り、逆流を遡るのはきつかった。カヌーは進まず力づくで漕いで川を上った。
陸にあがってから奄美旅先案内人は、「奥に行くとマングローブが密集した原生林があるのだけれどそこへ行くのは大変。行ってからも大変」と説明をした。
いや、このコースで十分楽しかった。我々はマングローブ研究所の所員ではない。清澄な川をマングローブの林に向かってカヌーを漕いだだけで楽しかったのだ。引き潮を狙って海底にあがってなお楽しかったのだ。ほほを摺り寄せたくなるような滑らかな塩湿地帯の地肌に触れるだけで感激をしたのだ。
地球温暖化で東京にも南国の蝶が飛ぶようになった。人工マングローブは伊豆にもある。そのうち温暖化が進み、住用マングローブ原生林から黒潮に乗ってたどり着いたヒルギのタネが東京湾の三ノ瀬にも根を張ってマングローブの原生林ができるのではないかと思った。できればよいなと思ったが、それは東京が亜熱帯化したことの証明でもある。できたら困ったことなるので、マングローブは南の島で楽しむべきと、膨らんだ夢の風船をぱちんと壊したのであった。