松崎さんは仮りの名前である。
松崎さんは、なんとも並外れたスケールを持っている人であった。
母親が向島育ちで、そのため生粋の江戸弁を話した。彼は自動車レース中に事故を起こして総入れ歯になったが、歯の部分以外はすべて純金で作った。ビジネスが苦手で、左脳はほとんど活動していなかった反面、右脳には長けていた。
彼はとてつもないおしゃれであった。ビキューナのコートを二着も持ち、冬になると交替に着ていた。フランクミュラーや、パテックなどの高い腕時計を幾本も持っているが、時にはしゃれたスオッチなども平気でしていた。
服も靴もシャツもイタリア製で、イタリアまで服を買いに出かけるのであった。
エミールガレのコレクターで、彼の目利きは相当のものであった。
周囲にいる人たちは仕事をしないで贅に身を任せている彼を批判していたが、私は彼の良いところを誉めた。誉められたことのない彼は私に懐いた。
普段は音沙汰など何もない彼であるが、よい時と悪い時は必ず私のところに顔を出した。
彼は指南となる先生がついて、先物の株式をやっていた。
儲かっている時は突然やってきて、「散り銭をするんでどっか行くベ ーよ」と私を銀座のすし店に誘った。散り銭とは儲けの一部を振舞うことである。
服部さんもやれよとずいぶん薦められたが、私は断った。松崎さん!株はじゃんけんと一緒でいつかは負けるぞ。先物をやってしまったら取り返しのつかないことになるぞと注意をしていたが、儲かっている時に聴く耳は持たなかった。
案の定そのときがやってきた。
彼はそのときも私の都合を聞いて毎日のように事務所に訪ねて来た。しかし株で損を出していることなど一切話さず、ポルシェカレラの何年はどうだとか、そんな話をして、それから食事をして、夜遅くに帰った。何時になっても、もう一軒行こうと寂しい顔をしていうので、すぐに株で損をしているなと分かった。やがてすべてを話し出し5億円の損であることが分かった。すっちまってよーと彼は厳しい顔をしていった。家に帰れない状態であることがそれで理解できた。
結局、その損は資産家の父親が弁済した。株だけでなく、ビルも建てていた。そんな一切合財を父親は負担した。
その一件が落着してから、しばらくして、いま竹富にいるんだと電話が入った。
竹富はかつて私と一緒に行った八重山群島の島であった。
「もう一ヶ月くらいいるんだけれど、毎日息子を石垣に飲みに連れ出すんで、もう帰ってくれと女将さんから苦情が出てさー」と言っていたが、またなにかしでかしたと私はとっさに思った。
「なにかあったの」というと、「かかあに追い出されちまったあ」と松崎さんは言った。
「コンドイ浜でじーとしていると砂浜に押し寄せる波の音が、まるで地球の呼吸みたいだ」と、彼は電話で言った。
彼は夫婦喧嘩をして飛び出して、私と一緒に旅行をした竹富島を避難先に選んだと私は思った。この電話が、来てくれと叫びに聞こえた。
「松崎さん、今度の週末に行くから待っていてよ」と電話を切った。
しかし、終わった後であった。私は夫人に電話をしたが、すべては終わっていた。離婚届に印鑑を押し、亡き父が残した膨大な遺産や株券はすべて夫人や息子達に配分されていた。何がしかの預金とポルシェ・ターボを持って家を出て行ったということであった。理由はいかにも松崎さんらしい、ささやかないたずらのようなものであったが、夫人はそれを許さなかった。笑ってしまえばそれで許せたのにと思ったが、もう手遅れであった。我慢の限界が切れたのであった。
私は週末に朝早く起きて羽田から那覇空港へ行き、それから石垣島へ飛んで、石垣港から竹富に渡った。
松崎さんは竹富港で待っていた。
「服部さん。ほら、ちゃぽんと波が寄せるだろう。あれ、地球の呼吸と思わない」
彼は、また強がりを見せた。
「奥さんから聞いたよ」私は、しばらくしてから話を切り出した。
「中年のお見合いってのがあってよう。おもしろそうなんで、申し込んだらその返事をかかあが開けて見ちまってよー。それで怒り出して親戚中が集まってこんな風になっちまってさー」
そんなこと、笑い飛ばせるほどの器量を持った奥さんだったら、笑って終わって仕舞ったんだろうが、そうではなかった。
私は言った。これが私の松崎論である。
「粋な人なら松崎さんの手綱をしっかり持って、それはおもしろい人生を歩めるのになあ。奥さんは、まじめ実直の人だからなあ」
それほど松崎さんはチャーミングであった。ただ、ものさしが世間標準から逸脱していた。破天荒であった。
竹富島は、花が咲き乱れ、島バナナもなっていてこれが極楽の絵図であろうと思った。極楽にいても、話は切なかった。
「松崎さん。いっそうのことこの島の住民になってしまったらどう。私はノロの旦那をよく知っているから、色々と頼んであげるよ。近所のおばさんと契約をすれば炊事洗濯をやってくれるはずよ」
私達は西の桟橋にでていた。引き潮であった。水平線の境目が光り輝く遠くに、西表島がうっすらと見えた。ニライカナイ思想はこのような光の海から育まれていったと思った。いつの間にか沖縄弁になって、話をしていた。「そうしたらさあ、いつか奥さんも許してくれるはずよ」桟橋に腰をおろして夕日が落ちるまで話をしていた。
次の日、私は早い飛行機で那覇経由で東京に戻らなければいけなかった。
その夜は二人で泡盛を飲み明かした。語り明かしはしなかった。
あれから、松崎さんとは音信不通でいる。彼の携帯電話番号は変わり、通じない、私も事務所を移転している。私にとっては松崎さんの行方が気がかりである。