久しぶりにノンビリとした週末であった。8月20日頃に書店に並ぶビジネス書の原稿をPHP研究所に入稿し終えたところであった。できるだけ以降の修正を減らすために原稿段階で校正を徹底的に行なう。この作業は案外と苦しい。
同じ原稿を何度も読み直す作業は、一日三食カレーライスを、毎日食べ続ける苦しさと似ている。編集者はそれを毎日やっているのだから、ただ感服する。編集者とキャッチボールをやりながら、「これで組み版に回しましょう」となったのが先週の金曜日であった。だからおかげで週末は気分的にノンビリとなった。このあと三回の校正を経て本は出版される。まだカレーライスの苦しみから解放されたわけではない。それにタイトルはまだ決定していない。
土曜日は雨であったが、こんな日はクルマも少なかろうと昼前から軽井沢へ出かけた。案の定クルマは少なく、あっという間に着いてしまった。
軽井沢の植物は、4月、5月と観測史上一番の雨量のせいか、驚くほど広がって侵食をしていた。なじみの蕎麦屋は6月5日で閉店となっていた。私は名残り惜しそうにザルそばをおかわりした。軽井沢といっても、しょせんは田舎。ここで商売をするむずかしさは東京の比ではない。毎年たくさんの店が閉めて、また夢を追いかける人が閉めた店を開ける。
日曜日は家で、次に出版する本の企画を練った。合間に犬と遊ぶために庭へ出た。たっぷりの愛情を注ぐことで、こちらもたっぷりの愛情をもらえる。愛情を注いだ犬はいい子になり素直になる。でも効果は長続きしないから継続して愛情を注ぎ込まなければならない。
庭には「がくあじさい」が咲いていた。ふと唐招提寺でみた仙人花と同じ種類であると気付いた。花のような花弁が小さな花を取り巻いている。
下草はどくだみ草が地を占領して花を咲かせていた。地下茎で増えるどくだみ草は生命力が強い。薬効があるので近所の老婦人たちがこの草を採りに来る。
我が家には三本の柿がある。うち二本はこどもが小さな頃に食べた柿のタネを地に埋めたものが高木に成長した。庭師は早く手を入れれば枝を低く伸ばせたのにというが、おかげで人の手には届かずビッシリ成る小粒の甘柿は、鳥の餌になる。柿が熟す頃、たくさんの種類の鳥が柿を食べにくると家内はいう。
よく見ると足元に柿の若木が葉をつけていた。鳥の食べ残した柿が熟して落下し、ここに根を生やした。この木はやがて我が家の4本目の柿になる予定だが、高木になるように手を加えず、やがて熟した柿は鳥の食料にしてあげようと決めている。鳥とて食料難であろうと勝手に想像している。
梅もずいぶん大きくなってきた。スーパーで配る一番大きな袋に4杯分ぐらいは採れる。この梅も鳥に食べさせたいと願ったが、熟すと落下してその希望は叶わなかった。青いうちに採るのは私の仕事。採った梅は家内の老母に引き渡され、やがて梅干になって我が家に戻ってくる。
日経BP社から出版した拙著ビジネス小説のモデルとなった大分にある黒川一さんの会社を訪ねると、「生き貫く力、息抜く力」と書いてあって、はっとさせられる。息を抜いてノンビリと過ごすと普段見えないものが見えてくる。見えているのに見えないことってたくさんある。忙しさがそうさせるのだ。忙とは心を亡くすと書く。忘も心を亡くすと書く。のんびりとしたので見えないものが見えたのかと問われると肯定はできない。しかし六月の庭に立って緑をたっぷりと満喫したことだけは確かな週末であった。