喜納昌吉の「花」は、日本の名歌100に選ばれたほどの名曲だが、名曲が生まれた二つの秘話を語ろう。
「花」はどこで生まれたか。答えは渋谷の東武ホテルで。「できあがるまで早かったよ」とは喜納昌吉の妹啓子さんの話。
この唄には流れるという言葉を多用しているが、「流れる」は、どこから生まれたのか。実は意味が深いのである。
私が喜納昌吉と出会ったのは1987年。昌吉やチャンプルズが経済的にどん底の時だった。それから21年が経過する。いまや参議院議員で国際通りに自社ビルを持っている。若き頃、喜納昌吉はマネージャーを連れてインドに放浪の旅をしたことがある。途中で歩けなくなりマネージャーが背負って旅をしたというのだが、マネージャーの話だと吸い付けられるようにたどり着いたところが、バグワン・シュリ・ラジニーシのところであった。喜納昌吉はラジニーシから強い影響を受けて88年当時はウパニシャッド(智恵)と名づけていた。それだけでなくチャンプルズの全員にナントとか、サンスクリットの名前を付けていた。
ラジニーシの本を読んだらよいと喜納昌吉から薦められ私は一冊の本を貰った。めるくまーる社が出版しているバグワン・シュリ・ラジニーシの「存在の詩」である。
めるくまーる社は精神世界の本を主に出版する特異な出版社である。
私は当時ある経営者の薦めで、やはりめるくまーる社が出しているクリシュナムルティーの著書を読んでいたので同書と比較し読むのをやめたのだが、本書の案内を見ると
「チベットタントラ仏教不滅の名篇『マハムドラーの詩』を題材に、現代インドの巨星OSHOが宇宙との全面的なオーガズムを奔放自在に謳いあげた究極の詩。川とともに漂い、川とともにくつろぎ、やがてあなたは光たゆたう存在の大洋へと還る……。「闘う必要なんかない。泳ぐことすら必要じゃない。ただ流れといっしょに漂うのだ。〈川〉はひとりでに流れている。……〈川〉とともにくつろぐこと、それがタントラだ」(本文より)」と本書が紹介されている。
私は喜納昌吉ファミリーと永い付き合いをしている。両親だけでなく二人の妹、弟、それにチャンプルズの古い人たちはみな知り合いだ。ファミリーは誰もがおもてなしの名人で、人に実に気を使う。特に母親と上の妹啓子さんの気配りは凄い。かつて沖縄市の実家に招待された時のおもてなしと言ったら家族総出で気配りをするのであった。
啓子さんが上京すると高円寺の「抱瓶」にいるから来ないかと電話が入る。抱瓶は沖縄居酒屋である。だいたい当日の電話なので行けるはずもなくお茶を濁していたが、この前沖縄へ行ったとき、悪いと思って国際通りの店へ立ち寄った。
写真を撮るよと言ったら、それまでの普通の顔からトタンに写真向けの顔に変わった。見習うべきはこのプロ根性である。
出会いから21年。みなが年を重ねた。精悍だった昌吉は父親とよく似たような顔になったし、女豹のような下の妹幸子さんも少しは私と打ち解けて話をするようになった。啓子さんは商売人の母親にそっくりだ。死んでしまった赤塚不二夫の言葉を借りるなら「それでいいのだ」である。
「花」の歌詞に多用されている「流れる」はここから取っている。
バグワン・シュリ・ラジニーシは、やがてバグワン・シュリをとってラジニーシに変え、次いで和尚ラジニーシに変え、最後は和尚(OSHO)と名前を変えそれから1990年に死去した。