画家は支度をして私の到着を待っていた。真っ黒な雲が垂れ下がっていやな風が吹いていた。画家は一荒れくるでしょうと呟いた。強い勢いで大粒の雨が降ってきた。私はこれは一過性ですと告げた。小諸から黒い雲が立ち上って東南へ進んでいたことを話した。
二人はクルマで高峰高原に向かった。雨脚はさらに激しくなった。消防車のホースで水を掛けられたような勢いで降り、前は何も見えなくなった。高速にワイパーを切り替えたがまったく同じであった。ライトをつけさらにフォグランプも点灯したが意味はなさないだろうと思った。クルマはチェリーパークラインの急峻な山道に立ち往生した。しかし前へ進まなければ追突される。私は視界ゼロの状態であったがスロットルを緩めなかった。すると今度はバラバラと大きな音がした。画家は「雹(ひょう)です。どこか大きな木の下で止めないとクルマがベコベコになってしまいます」と叫んだ。
とてつもない歓迎を受けながら私たちはチェリーパークラインを登った。やがて雨はうそのように静かになった。「雨雲の上になったのです。高峰高原は標高2000メートルの雲上です」画家の言うとおりであった。ここは雨は降っていなかった。さわやかな新緑の香りがクルマのフイルターを通して室内に入ってきた。
「池の平湿原へ直行しましょう。この湿原は古代に噴火した浅間連峰の第一噴火口の跡地です。昔は湖だったのですが山の一方が決壊し、水は流れて湿原になったのです」どこかで聴いた話であった。阿蘇山の形成と同じパターンであった。
池の平湿原はこじんまりとした女性的な湿原である。湿原そのものが噴火口の跡地であるので、私たちは緩やかな坂、つまりは噴火口の壁を下って湿原に入る。坂の途中には落葉松の林がある。そして下草は笹の葉で覆われている。標高2000メートルにふさわしい風景であった。湿原は尾瀬ヶ原のように樹でできた通路を歩くことで湿原保護がなされている。「この湿原は来るたびに風景が変わります。まもなく高山植物が一斉に花を開きます」
雲が押し寄せてくる。目の前にまるでカーテンが閉じるように雲が左から右へ流れ風景を包んでいく。日曜日と言うのに人はほとんど歩いていない。
静かな湿原で画家と私はいろいろな話をした。「画家は作品を良く手放す気になりますね」。私はフランス在住の画家の話をした。「彼女は年に一度日本に帰ってきて、展覧会をやるのですが最終日に買った絵画を引き取りに行くと哀れなほどに打ち震えているのです。夫は服部さんに持ってもらえるのだからいいじゃないかと言葉を掛けているのですが別れがつらいのでしょう」
話を聴いていた画家は「私もそんなときがありましたが、いまは割り切ることができるようになりました」といった。「描いた絵を手放すことで画家は進歩するのです」と呟くように言葉をつけた。「私たちも同じです。創案したことを本に書いてしまう。私はここまで書いていいのかというほど書いてしまいます。だから頭が空っぽになって新しい考えが生まれるのです」私は画家に相づちを打って自分の仕事に置き換えた話を返した。
画家は高山植物に詳しかった。たくさん咲く花をすべて名前を付けて説明した。「この花を描きたくてここまで幾度足を運んだでしょうか」
「普通の花ならアトリエに花を運んで絵を描けますが高山植物はそうはいきません」画家は寂しそうな顔をした。
軽井沢の落葉松は垂直に伸びるがここでは枝が水平に伸びる。秋には全山が黄色く紅葉すると言った。
それから私たちは高峰高原ホテルで珈琲を飲んだ。画家が来たことはすぐに知れ渡り、支配人や社長が飛んできた。画家は小諸では名士の一人であった。晴れればこのロビーから八ヶ岳連峰と富士山が良く見渡せますと支配人は私に説明をした。
帰路は小諸ICから高速に入ろうとしたが日曜日の夕方で富岡から嵐山まで40キロ渋滞のランプがついていた。その先も渋滞であることは間違いない。距離計を見ると280キロほど走っている。今日は軽井沢へ泊まろう。私は決心をすると高速に乗らずに浅間サンラインを戻った。そして南が丘のメープルコートに飛び込んで今宵一泊を頼んだ。ここは高級別荘地にある2階建てのこじんまりした宿泊施設である。部屋には暖房が入っていて25℃で設定されていた。私は早い時間に布団に入ったが寝付かれず、服を着直して南が丘を散歩した。しんしんとして静かな夜であった。