奄美の泰さんから、こんなタイトルがついたメールが届いて新聞切り抜きがJPEGで送られてきた。奄美の大和村大棚小中学校へ寄贈した絵画が地元の奄美新聞と南海日日新聞に掲載された知らせであった。上の記事は奄美新聞である。
写真に映っているこどもたちが小学校と中学校の全校生徒である。写真には先生も映っている。島には油彩画の美術館がないから、こどもたちは画家が描いた絵に触れることはない。
上の新聞は南海日日新聞の記事である。
大棚集落といえば、奄美のビッグダディ。子沢山のファミリーが住んでいる集落でちょっとは知られている。私も大和村は良く知ったところで、思いで深い場所でもある。それはそれは美しい海と山が身近にある静かな集落だ。お披露目式には鹿児島から赴任している美術の先生が、この絵を丁寧に説明をしてくれたそうだ。
「この作家は田中一村と同じ絵の学校を卒業をした先生です。
田中一村の時代は東京美術学校といいましたが、この星守雄画伯の時代は東京芸術大学と名前を変えました」。
田中一村と言えば奄美を描いた日本画家で田中一村美術館が奄美にある。田中一村はその実力ある先駆性のため、画壇から受け入られずたまたま旅をした奄美大島の美しさに心を奪われ、奄美大島に移住をする。そしてつむぎ職人として薄給を積み立てては絵を描き続けたが、認められずに貧乏のどん底で失意の死を遂げる。上の小屋は田中一村が人生の終わりに一人で暮らした、そして死んだ家である。
しかしその作品がNHKで取り上げられると大ブームが起きて、いま田中一村の作品は、こんなすごい、田中一村が描いた作品だけのために建築された田中一村美術館に飾られている。箱物行政の結果といってしまえばそれまでだが、それにしてもやりすぎではないのかと思うとてつもない建築物である。建物の窓もウインドウピクチャーと呼ばれるもので、一村の絵画に模して自然を一幅の絵画と捉えて切り取っている。
美術の先生が星守雄を「奄美の人なら誰もが知っている田中一村の後輩ですよ」と位置づけることによって親近感を持たせる配慮であることは、校長からの話を聴いてすぐにうかがい知れることであった。
「この絵画は外国の競馬場を描いたものです。外国では正装して競馬場に行くのですよ。遠近法は知っていますね。この絵は遠近法で描かれているのですよ。このタッチは筆をこう使って描いたのです」。
美術の先生は実際に筆を持参して絵の描き方までこどもたちに教えたようである。お披露目式に出席した新聞記者が、説明のまま書いた。奄美新聞のタイトル「遠近法で描いた」とはまさに美術の先生が発した言葉を拾い上げたものである。
校長は電話で、大和村の美しい風景を撮影して送りますと言っておられたからそのうち届くと思う。
泰さんのメールには、「酒井法子事件で奄美のイメージが下がってしまいました」と残念そうに綴られていた。地元で覚せい剤を入手したというくだりがイメージを落としたところである。地元に覚せい剤の密売組織があるとは思えず、けれども善良な土地の人は、このように心を痛めている。
「また奄美においでくださいませ」と、泰さんのメールは、私の検査入院を心配してくれた後にこう括ってあった。