晩秋の光は穏やかで遠慮深い。私はプラットホームに立っていた。光は人に届かない。青春の思い出が心をよぎった。あれから半世紀近くが経過していた。あの時もこのプラットホームに立っていた。その残影は心のひだに焼き付いている。心のひだに、か細い光が当たっている。だから私は時折思い出す。
聖橋は形を変えていない。けれども人の心は流れて変わった。心のひだにある残影は、形を変えていないものの上に刻まれている。だから私はこの街に来る限りいつまでも青春そのものでいられる。
私は何も追いかけはしない。川の流れは変わらないが、川は多くの時間を海のかなたに流し去った。流れ去ったものを私は追いかけない。追いかけなくとも流れないものは心に刻まれている。
私はふと檸檬を思い出した。梶井基次郎の檸檬ではない。高村光太郎の檸檬ではない。さだまさしの檸檬ではない。川の向こう岸に、檸檬という名の喫茶店があった。画材店と兼ねた檸檬は、まだ年若い私にはとてもしゃれていて心がときめく喫茶店であった。そこで私は飲みなれない珈琲を注文し、流れるLPレコードの音に耳を傾けて、大人の世界に足を踏み込んだ歓びに浸っていた。
それから、約半世紀の時が流れた。人は流れていく存在とはシュリ・ラジニー師が書いた「存在の詩」の一節である。私はこうして御茶ノ水の街を歩いている。流れて、流して、流されて、私はいまこの街を歩いている。この街はただいま晩秋の真っ只中であった。