目的の一つは小学校訪問であった。ここ大和村は奄美大島の西南西、本州にたとえると島根県に相当する場所にある。急峻な山が海岸の近くまで降りてきて、前は日本海に相当する東シナ海がある。わずかな平地に住宅はあって、ほとんどは海沿いにある。名瀬市からクルマで35分。いくつかの峠越えをしなければたどり着かない。
中学校までは地区にあるのだが、高校進学となればこどもたちは大棚地区から名瀬市まで自転車による通学を繰り返す。雨量が年間2900ミリを越す(名瀬市)この地では、峠越えはさぞかしきつかろう。恵まれた都会のこどもたちと比較すると大変な努力が必要とされるのだがこどもたちはそれが当たり前と受け止めて元気で通学している。写真に映る教室は小学校一年生のクラス。なんとも可愛らしい。
音楽室でピアノを弾いてみた。窓辺の向こうには東シナ海が見える。私は海を見ながら井上陽水の『招待状のないショー』をGの和音で始まるコードで弾き始めた。ピアノはチェンバロの様な音を奏でた。私はなぜか悲しくなって弾くのをやめた。こどもたちはこの音がピアノの音色だと思っている。
これらが壁に掲示されているこどもたちの作品だ。学校には大きな絵が何枚も飾られているがどれも素人の絵であって、これらの延長上にこどもたちの絵はあった。正直、包み隠さずに書くと、この絵を見て慄然とした。
寄贈した絵画が適切であったか、絵の前に立って自省をした。この画家は東京芸術大学油彩学科を首席で卒業して大橋賞を受賞、その後もフランスに留学して技術を磨いた人である。色彩の魔術師とも言われているし遠近法などを取り入れてプロが見ればすぐに上手いと分かるのだが、へたうま調で描かれているので躍動感ある筆捌きがこどもたちには乱暴に見えるかも知れない。ここを真似されたらいけないなと思った。
校庭で大棚小中学校霧島校長、宇宿小学校徳校長、そして泰さんと並んで記念写真を撮った。シャッターを押したのは私である。徳校長が初任校であったのがここ大棚小中学校であった。後ろの碑に書かれた文字は徳校長の筆によるものであった。金久集落に家族がいて、わざわざ道案内をいただいたのである。奄美で金久とは海辺にあるという意味らしい。そういえば金久集落は海辺にある。霧島校長は姿勢正しく武道家のような凛々しい姿であった。電話では幾度も話をしたが、お目にかかるのは、はじめてであった。
「服部さんは奉安殿を知っていますか。この先にある今里小中学校に当時のまま残されていて国の有形文化財に登録されていますよ」と霧島校長が話を差し換えた。
ここには天皇両陛下の御影(写真)、国旗、教育勅語などが安置されていて、国家的な行事があるときに、恭しく奉安殿から取り出して飾られるのであった。
昭和13年(1938年)に建立された奉安殿がいまだに残されて、いまだに語り草になることで、この島の人々が持つスピード感覚を計り知れる。そうだ。この島ではいまだに中世期のことが昨日のように語られ、戦前がこんな形で生活に同居しているのだ。
学校の横にはハブ棒が設置してあってハブ注意の看板がコンクリートに打ち付けられていた。山のふもとに学校がある。この場所は人家近くに棲んでいるねずみを、臭いを頼りに追いかけてきたハブと、集落に住む人間とが交わる場所でもあるのだ。時の流れが私たちとは違っていて、この地に住む人たちは別の時計と別の歴史年表を持っている。未来を生きるこどもたちに一枚の油彩画はどのような力を与えることができるのか。私にとってもここは自らを試練する場所であった。