朝青龍に対して横綱の品格がないと非難していたのは最近のことではない。テレビのコメンティターも新聞記者もこぞって品格がないと声高に騒いでいた。勝負に勝ったら喜びのポーズをとったのはけしからん!品格がないというわけだ。横綱審議会の長老たちも同じことを言う。相撲の実況中継をしているテレビ解説者も同じことを言う。アナウンサーまでがこれに同調する。翌日の新聞は両手を挙げて喜びを表現している写真を一面に掲載して同じ言葉を繰り返し使って朝青龍を叩く。
それならサッカーの試合はどうだ。点を入れた選手はグランドを走り回り、時にはシャツを脱いで上半身裸になって仲間と抱き合って喜びを表現しているではないか。マスコミはサッカーの選手を指差して品格がないとは一言も言わない。
柔道の選手さえ勝てば両手を高く上げてガッツポーズをとる。マスコミは品格がないとは一言も言わない。なぜ相撲だけが品格というのか。きっと誰かが言った言葉なのであろう。相撲は国技だから横綱には品格が必要だと。
相撲は国技でもなんでもない。相撲の歴史を追いかければすぐに分かる。相撲は見世物であった。だから興行と言う。剣道や柔道の試合を興行とは言わない。ショッキリというおどけた試合も見世物だから行う。それが国技と言うことになった。見世物であった相撲を国技とまで言わしめるほどに高めたのは歴代の力士たちであり相撲協会である。
熊本の藤崎宮近くにあった吉田司家に横綱は詣でて、ここで横綱の称号を与えられる儀式をしていた。1986年であったか、私は仕事で毎月熊本へ行っていた。やがて吉田司家がお金の問題で不祥事を起こした。このときの様子は熊本にいてよく知っている。相撲協会は相撲の神様である吉田司家に横綱を送ることをやめた。つまり相撲は神事として存在しているのであり最高の地位は神によって授けられるというのである。横綱は今でも明治神宮で奉納土俵入りをしているが明治天皇を祭る明治神宮になぜ奉納土俵入りをするのか疑問である。ウイキペディアで「国技」と検索すれば私が言うことが理解できると思う。相撲の興行場所を国技館と名付けたが見世物小屋であったとウイキペディアには書いてある。
心技体は日本人なら分かることだが相撲協会は力士に心の教育を体系だって行うことを怠っていた。力士が日本人だけでやっているうちは勝った喜びを表現してはいけないと言う精神構造は理解できた。しかし世界各国から来た若者が力士になってグローバル化しているのだから日本人しか理解できないような精神的な要求を力士に求めても通用しないことを知るべきであった。
相撲は勝利を価値の最上位に置く格闘技である。日本人は昔からあらゆることを「道」にまで高める特殊能力がある。商人さえも商人道という儒教を基礎においた思想を持つ。相撲道は心技体という。朝青龍は心技体の三位のうち、「心」が欠けていると言うのである。
彼が横綱になったのは技と体力が優れた結果、勝利を重ねたからであり、精神性が高いからではない。格闘技の選手として能力が優れていたから最上位にまで上り詰めたのであって、心は優れて品性が高くても技も体力もなければ評価はされないのである。
モンゴルで格闘技をやって頭角を現した闘争本能が高い若者に品格などと言う計測できない概念を求めても通用することではない。彼は人並みはずれた闘争力を磨き上げて横綱になった。なったとたんに、今度は「心」ができていないと言われ始めた。彼はインタビューでこう答えている。「皆は横綱の品格と言うけれど土俵に上がれば鬼のようになる。鬼のようにならなければ勝てない」力士としては大きなからだではない朝青龍が勝つためには鬼のような闘争本能を燃やす。当たり前のことだ。私は知人に競艇のA級選手がいるが,普段は物静かでもレースになれば闘争本能をむき出しにする。相手の持っている箸を叩き落とすと彼は自分の闘争本能をこのように例えている。
相撲協会や横綱審議会が外国人横綱に日本でも一部の人しか通用しない概念である品格を求めるなら、鎖国ならぬローカルに徹するべきである。外国人に勝っても喜ぶなと教えることは、勝ってはいけないのかと思わせるだけである。勝って喜ぶことがなぜ悪いのか。
私はいま、夜の帳が下りる地獄の門を見ながらこのことを考えている。世界にはロダンが作った7つの地獄門がある。その一つが上野公園の国立西洋美術館にある。ダンテの神曲に描かれた天国編、煉獄編、そして地獄編の三つの世界のうち、地獄編には地獄に至る門があって、この門をくぐる者は一切の希望を捨てよと記されている。
私は朝青龍を引き合いに出しているけれど朝青龍事件を語っているのではない。この国はいつの間にか成長のエネルギーが消えうせ、おどろおどろの世界になってしまっている。誰かが糸を引き、メディアは一斉に報じ、大衆が迎合し、それは巨大な潮となって世論を作り上げる。それは正義となって誰かを抹消する。潮は一瞬にして元の大衆に戻り、メディアは次の材料を探す。この構図が誰一人不思議ともおかしいとも思わないで出来上がっている不可思議な世界。世の中はまさに末法思想に慄いた平安時代と同じ時代に舞い戻ってしまった。奇しくも平成と平安はほぼ同じ意味である。
この民族は個の自立をしないとグローバルな社会に生き残ってはいけない。個の自立とは相手の価値観を認めて、同時に自分の価値観も相手に認めてもらうことから始まる。そのためには自立とは何かから志向しなければならない。烏合の衆はたくさんいても個の自立をしている人は少ない。それが今の日本だ。私は蛇の神様を戴いて歓ぶ蛙にこの民族を象徴してみている。このまま進めば日本人は列を作って地獄の門をくぐることになると思っているのは私一人ではない。私は地獄の存在を信じないけれどこの門をくぐる者は一切の希望を捨てよとダンテの銘文はこの国の未来を象徴していると私は思う。