目白押しに講演会が並んでいる。2月は普段の仕事に加えて講演の仕事が増える。公開情報では2月4日の大塚商会実践ソリューションフェアの基調講演、続いて16日のマイクロソフト社の基調講演、非公開では携帯電話キャリアの講演会などたくさんの講演会が目白押しに並んでいる。大塚商会の基調講演は昨年は740名ほどの申し込みがあり反響を呼んだ。講演のためにパワーポイントで資料を作る。あらかじめこのような話をしますと資料を主催者に届ける。主催者は当日参加者に資料を配布する。その仕事が一段落した週末に、クルマの慣らし運転のため箱根に出かけた。
運転しながらいろいろと思った。哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と命題を提唱した。私は運転をしながら「人間は森羅万象を通過する存在である」と思った。個の人間は生まれ、通過し、消えていく。しかし命はつながって人間と言う名の大潮流は命を絶やすことなく森羅万象を通過する。
厚木ICで降りようと考えていたが出口4キロ渋滞と情報があったので、私は出口を御殿場に切り替えた。厚木から御殿場までは30分で到着する。4キロ渋滞の中身によっては抜け出るまでそのくらい時間が掛かることがある。ちょうど熱海の梅林に人が集中する時期でもあるので、迷わず御殿場から箱根に登ろうと判断をしたのである。御殿場ICをでて右折するとそのまま箱根に登る道になる。乙女峠に差し掛かる途中で車を停めて雄大な富士の写真を撮影した。それから芦ノ湖には出ないで一号線から強羅へクルマを向けた。御殿場から20分で強羅に着いた。箱根路はがらがらであった。
人間社会がややこしいのは脳が発達していることによる。人間大潮流は極小から巨大まで森羅万象に関心を持って隅々にまで毛細血管を送り込んでいる。戦争をする価値、戦争を忌み嫌う価値、ここにはさまざまな森羅万象がある。そこに個の人間は生まれ育って影響を与えて死んでいく。それが問題なのだ。脳が考える正義とは時代背景や生い立ちと言ういくつもの色つきフイルターを通過した上での正義である。
地球には今世紀中に100億人になる人間と言う名の大潮流が存在しているが個によって正義が異なる。異なる正義感を持つ人間が思うがゆえに我ありと発言するのだからややこしい。私は強羅温泉に浸かりながら仮説を立て続けていた。
帰りは一号線を下って小田原から厚木から入るのが一番近いコースであることを知っていたが、私は須走から中央道に入るコースを選んだ。先週、中央道の料金ゲート出口でETCが引っかかった。中央道に入ったとする入り口記録がないという理由であった。そこで同じコースを走ることによってどこでそのようなことが起きたのかを検証したかった。
自宅を10時に出発して強羅を出たのは午後1時20分であった。明るい日差しを受けて富士山は光っていた。思ったとおりであった。先週は大月に入る料金ゲートでETC入り口は閉じていて、係員がこれまでの走った分をETC上で精算するだけで、中央道の入力をしなかったのである。これは私の責任でもなくシステムがミスを犯したわけでもなかった。道路会社側の人為的なミスであった。今回はETCゲートが開いていて、これまでの走行料金を引き落としながら、中央道に入ったとする情報もシステム的に押さえていた。
人間とは何かを哲学しながら今日は300キロほど走った。軽井沢なら400キロが普通であるから100キロほど時間短縮である。ガソリン消費量は1リッター当たリ8.1キロと表示されている。
大月は東京から見ると山梨県の入り口のようなものだ。高井戸まで40分。家には明るいうちに戻った。これで慣らし運転は半分を消化し走行距離は1500キロになった。人間はややこしい存在である。慣らし運転をしようと考えて実行したことで私の小さな財布からガソリン代と高速道路代と入浴料と昼食料が減って、そのお金はどこかの会社と個人に移されて経済効果を生んだ。
我が思うこと、人間が思うことは脆く儚いことだ。時代背景や生い立ちや育ってきた環境や受けた教育や、その人の体験などがさまざまに影響を受けて培った思想を正義として信じているのだから。
これほど脆いものはない。いつ何時でも人間が打ち出す指針に絶対的なものはなく、みな脆いのだ。それは森羅万象を整理してこれこそが真実であると万人が覚醒していないからである。真実はないということだけが真実であると私は思う。だからこそデカルトは「我思う、、ゆえに我あり」と命題を出し、パスカルは「人間は考える葦である」と命題をつけた。私は「人間は森羅万象を通過する存在である」と自分に言い聞かせるようにして命題を考えた。人間が人間社会の混沌(カオス)を整理することはできない。ましてや神であるなら、尚更できない。神をつくりし者は脆く危うい人間であるからだ。