まもなくアイラ島でウイスキーを学びに行く加治さんを送る食事をした。加治さんは大学を卒業して飲食業の道に入った。やがて酒に興味を持ってバーテンダーになった。次にワイン店で働くことでワインに興味を持ち、ソムリエの資格を取った。言葉では簡単だがソムリエの資格を取るのはなかなかに厳しいことだ。ワインの知識だけではなく体験、そしておもてなしの言葉、対応、会話など複合した知恵を要求される。
そして藤村俊二さんの経営するおひょいずで働いているときに私と出会った。彼はソムリエのバッチをつけなかった。多くの顧客はソムリエのバッチを信じ、バッジをつけない人の薦めを軽視する傾向にあると加治さんは言った。私は加治さんの的確なアドバイスに感激し、それを適切な言葉で彼に返した。もちろん奨められるワインに関してのことだ。二人は親しくなり、メニューに載っていない私だけのワインを置いてくれるようになった。
私は加治さんの生き方に共感をする。そこで御徒町のそば屋で送別会を開いた。ここはそば屋でありながら名酒を置き、そば屋らしい料理や新鮮な魚が揃って人気の店である。
加治さんはこういう生き方でよいのか不安であるといった。加治さんはこういう生き方ができる人である。多くの人はそれができない。過去に縛られ、未来に縛られ、現在にも縛られているからである。
私はどうせそこまでやるなら酒のプロになりなさいよ。本をたくさん出してお酒のことなら加治さんに聞けというくらいになりなさいよ。そうなれば世間がほおっては置かないとアドバイスをした。
私はかつての部下の死を受け入れるために懸命にもがいている時期であった。私自身が死から抜け出るような葛藤をしていた。何かから乗り越えなければならなかった。私自身が現在に縛られているのであった。加治さんに偉そうな口が聞ける精神状態ではなかった。
加治さんは初めに私が怖かったと白状をした。なぜにとは聴かなかった。そんなことを聴いて優越感に浸るほど自分が見えない存在にはなっていなかった。
私はBowmoreが好きだといった。西麻布のとく山があるビルの2階にBowmore直営店があった。私は、野崎さんが店長をしている頃のとく山で食事をしてBowmoreに上がって講釈を聞きながらビートが利いたアイラウイスキーを楽しんだことを語った。
人は人で癒される。いや、人は人でしか癒されない。コンサルティングを始めてすぐの頃、私は仕事で豪く落ち込んでいる時期があった。将来が不安に思えていたときの頃である。今日が土砂降りなら永遠に土砂降りが続くと思っていたころである。友人の薦めでベトナム産業視察旅行に参加した。日本企業の注文で和服に刺繍を施す工場見学があった。小学生位の女の子が大勢で豪華な和服生地を囲んで刺繍を施していたがどの子も屈託がない実に明るい笑顔をしていた。こどもらしい笑顔であった。私はこの笑顔で自分の落ち込みがなんと意味のないことかを悟った。この笑顔は今を一生懸命に生きていた。一日の苦労は一日で足れりである。今を一生懸命に生きるこどもの笑顔に救われた。そのとき私は人は人でしか癒されないと思った。人は人で磨かれるとも思った。
翌日、加治さんから丁寧な御礼のメールが届いていた。私は翌日は博多にいた。福岡にありながら東証1部に上場する企業の社長にプレゼンをして、夜は美味い博多の魚を馳走になった。玄界灘のさばの刺身は東京では食することができない福岡の名物である。翌日は岩田屋の友人と慌しい時間に会って話をした。6年ぶりの再会であった。東京に戻り、夜は私が主催する勉強会に参加した。
ようやく本来の時間に戻った。夜、かつての部下の夢も見なかった。乗り越えることができた自分に戻った。またいつもの時間がはじまった。