対談原稿をまとめ終えたら午前1時を過ぎていた。明日から2泊3日の検査入院が待っていたので対談の印象がまだ暖かいうちに書いておかなければならなかった。帰宅するタクシーでドライバーは「こんな遅くお仕事ですか」と言った。「そうです」と私は応答した。「失礼ですがお幾つで?」ドライバーは唐突に私の年齢を聞いてきた。「67です」と私は答えた。
「もう隠居の歳だ。働かなければならない何か事情でもあるのですか?」といきなり切り込まれた。私は「事情があるのです」と答えた。「それはお気の毒に」と言って老いたドライバーは無口になった。
入院当日は会合に出るために18時から外出許可を貰って出かけた。戻りは21時30分であった。それからすぐに検査に備えた点滴が始まり、その点滴は翌日の20時にまで及んだ。腕を曲げると点滴の管が閉塞し信号で看護師に知らせた。腕を曲げることができないとは予想だにしていなかった。そのため私は持ち込んだPCも筆記用具も使うことができなかった。大きく当てが外れた。
入院翌日の検査は30分で終了し、「問題はありません」と若いハンサムな2人の医師は笑顔で答えた。休暇のような2泊の入院生活を終えて病院から職場に直行し2日間のメールを読み返信した。手付かずの仕事に踏み出そうと思ったが止めた。そのパワーがでなかった。なにしろ一日1600カロリーで2泊を過ごしたのだから。
翌日は日曜日であった。朝9時からいつも見ているNHK教育テレビ日曜美術館で高村光太郎・智恵子の愛を描いた智恵子抄の美術展を知った。光太郎の代表作「手」や智恵子の切り絵がたくさん展示されていることを知って私はすぐに飛び出すようにして家をでた。「菊池寛実記念 智美術館」は南北線溜池山王駅からすぐのところにある。溜池山王までは乗車駅から22分だ。
高校生の頃、私は知恵子抄をほとんど暗記していた。高村光太郎に関する書籍はたくさん読んだ。いわゆる高村光太郎の追っかけであった。いま思うに青春時代に一番影響を受けた作家と言えば高村光太郎と亀井勝一郎であった。
「手」をこれほど間近に観たのは幸運であった。有島武郎が軽井沢で情死する少し前、「手」を五つの指の群像と評論した。その意味がよく分かったからである。
智恵子の切り絵は、写真家で甥に当る高村現が色彩を再現してくれたお陰で当時の姿を思い浮かべることができた。精神病を病んだ智恵子はゼームス坂病院の病床で光太郎に折り紙をねだり、先の曲がった小さな爪切りはさみを使って切り絵を芸術にまで昇華していた。色彩の色見本を見るような美しい色とカタチが綾なす芸術。私は智恵子の切り絵からマチスを連想した。智恵子は昭和13年52歳で病死する。死因は粟粒性肺結核である。最愛の妻を失った悲しみを光太郎は芸術家の目で、冷静に見つめている。
やがて光太郎は軍部の依頼で戦争賛歌の詩を書く。書かなければ国賊のレッテルを貼られる時代である。「歩け 歩け」がその代表的な詩だ。私はこの詩の芸術性を高く評価している。だが戦後に戦争を賛美した自分に恥じて東京の舞台から去って花巻の山奥に小屋を建てて畑を耕して暮らす。
智恵子との別離はやがて光に変わる。あるきっかけで光太郎は智恵子が万物となって存在していると気付くのである。智恵子抄の中で「亡き人に」は愛の形を語った絶唱である。
亡き人に
高村光太郎
雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニアはあなたのように黙って咲く
朝風は人のように私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほえみを迎える
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののようにあなたは立つ
わたしはあなたの子供となり
あなたはわたしのうら若い母となる
あなたはまだいる其処にいる
あなたは万物となって私に満ちる
わたしはあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
〈枕頭・・ちんとう)
やがて光太郎は十和田湖畔に建立する「乙女の像」の製作を依頼される。
「智恵子の裸形をこの世に残して わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」光太郎は花巻の小屋を引き払い中野にアトリエを借りて彫刻に没頭する。
智恵子抄で一番好きな詩、いつでもそらんじることができるこの詩が、智美術館にあった。ふと一節が目に飛び込んできた。「今日が何であるかをあなたはささやく」が。
哀しみを経て光となった智恵子は雀になり、グロキシニアになり、朝風になり、夏の朝日になり、存在するすべての万物となって目覚めの光太郎に今日が何であるかをささやくのである。今日あなたが生きて目覚めた真の意味を。
この考えは光太郎の理念と言うべきものだ。光太郎は智恵子に語らせているが光太郎の人生哲学だ。私が影響を受けたのは光太郎の思想であり思想から生じた生き方だ。
光太郎が自作の詩を朗読する映画が上映されていた。ここで私は二つの発見をした。九十九里を舞台に謳った二編の詩についてである。遊歩場を私は遊歩じょうと読んでいたが、光太郎は遊歩ばと読んだ。智恵子飛ぶを私は尻下がりに読んでいたが、光太郎は智恵子飛ぶ!!と尻上がりに力をこめて叫んだ。
それから私は美術館内にあるフランス料理店に入ってコーヒーを飲んだ。私には帰路につく途中工程として、精神の踊り場が必要であった。光太郎智恵子の世界から現実の世界に戻るための踊り場である。
智恵子抄の会期は7月11日までだ。会期をはずしたらもう二度と「手」を観ることも智恵子の切り絵を観ることもなかろう。もう一度訪問しようと心に決めた。