朝、長女から「ちかぢか軽井沢へ行く予定はないの」と電話が入った。「自然の中に入りたいの」と電話口で言った。「それならいまから行こう」と私は応えた。私はヤマボウシの花が見たいと思っていた。
軽井沢の森に着くと鳥が鳴いている。雨上がりで湿気を多く含んだ空気が鳥の声を響かせている。長女は思いきり大きな深呼吸をしてからふと足元に目をやると小さな緑色の尺取虫が目に入った。娘は尺取り虫を指先に乗せると「かわいそうに!固まっている」。とつぶやいて、「ここにいると踏まれるから別の場所に移そうね」と声を掛けてとまっていたと同じ雑草を探して安全な場所に移し変えた。居た雑草が食草と思ったのであろう。
ヤマボウシを愛でるには季節が進みすぎている。7月ともなれば多くはヤマボウシはみずきに似た花を落としているが季節を遅れて咲く花があるようにこのヤマボウシの樹はまだ花をつけていた。遠くから見ると山に帽子をかぶせているように見えるのでヤマボウシの名がついたと・・いうのは私の作り話で漢字で書くと山法師が正しい。
英国の大学で生物や環境を学んで帰国した長女は、動物や植物を見て英語では名前が分かるけれど日本語では分からないと言っていた。
尺取虫は蛾の幼虫である。小さな幼虫であったから小さな蛾になる。尺取虫は枝の一部分に化けることが出来る。自分の身を守る擬態である。固まっているとは人間に掴まれてあわてて擬態を演じている。
このような虫にも一個の生命が宿っている。生命とは生きる力の原動力そのものである。生命を宿す小さな昆虫に、それが強力な毒やかゆみをもっているものでない限り、人は恐怖や嫌悪を抱くことはない。
娘の虫を愛でるDNAは、私が母から受け継いだものである。採集して箱にしまっていた越冬中のオオムラサキの幼虫が春になって天井に昇って食草を探して這いずり回っている姿を見て、母はこのままだと虫が死んでしまう。かわいそうだから早く元の森に戻そう!と、電車に乗って中学1年生の私の手を引いて紙袋に戻したひしめく幼虫を狭山の榎(えのき)の森に返したのであった。
あれから50数年が過ぎたけれど、こうして娘のしぐさを見ていると母のDNAが私を経由して娘に引き継がれていることを静かに想う。
私は軽井沢の森を動画で映した。大紅葉も健在であった。