三連休が始まったが、私は出社して仕事をしている。新会社が行なう提案書作成の仕事が山積みになって残っているからだ。いまの時代は原則的に一回しか真摯に話を聴いてもらえるチャンスはないと思わなければいけない。だから一度の出会いに集中した話をしていかなければならない。
私は心静かにして時間をすごしている。毎晩遅くまで仕事をして、時に人と会って食事をして酒を飲んでいるから実際の時間はタイトである。時に連続して夜中の12時過ぎまで仕事をすることがある。あるときは連続して会食がある。時に一日3回もの提案で企業を訪問することもある。さらにメールマガジンを書き、メールに返信し、クライアント企業にコンサルティングの仕事で出かけている。企業との提携業務に時間を割き、片方でいろいろな相談ごとを持ちかけられている。講演会、セミナー画あり、勉強会の会合がある。実に慌しいはすなのだが、心は平らで静かである。ようやく、平凡に日々を暮らしていく生活ができるようになったのか。私の一日に余分な心の動きが削がれてきたのか。最近はシンプルな生き方をしていると思う。
鮭は川で生まれ海で育ち、川に戻って子孫を残し、川で死に、身は川に還る。そして溶けたミネラルは川を育て、川辺を育て、森を育てる。森で生まれた生き物は森で育ち、森で子孫を残し、森で死に、土に還る。還った身はミネラルになり、植物を育て、森を育て、川に流れ、川を育て、川の生き物を育て、海に流れ、海の生き物を育てる。
私にとって子育てはとうに終わっているから、私が鮭ならもうはるか昔に川へ還っているはずである。しかし私は子孫を残し育てた後にも自然に還らずこうして生きている。
だから私は物欲しげな仕事をしないように心がけたいと思っている。自分が確信を持ってつくり上げた仕事が力強く真実を照らし、顧客から支持されるような仕事をしたいと願っていることの裏返しである。その確信が私自身を支えている。
理屈をつければなんとでも思える。ようするに一つの仕事をやり続けてきて、67歳を越してようやく自分の立ち位置と、残された脳の健康時間があまり長くないことを、だからこそ無駄なく何をやればよいのかの道筋が、言い換えれば自分の心をどこに配分すればよいかが見えてきただけのことである。
人はこうした心境を円熟というけれど、かかる意味では私はまだ半熟である。知れば知るほどに知らないことが増えてくる。その気になれば死ぬまで人間は成長できる。ここが鮭と人間の違いである。子を育て終えても人間に生きる価値があるのは人間は哲学出来るからだ。
軽井沢は毎日のように激しい雨が降っていたようだが、今日、九州から甲信越までの広域で梅雨明け宣言があった。ネットで軽井沢の天気を調べたら、晴れマークが続いている。この雨が緑を一層深くしたことであろう。あの大紅葉はいったいどうしたろうか。
これから1ヶ月あまり清々しい高原の夏が続いて、8月の終わりには朝晩は薪ストーブをくべるほど気温が下がる。多忙な間にふと軽井沢に思いがはせることがあるが、余分な心の動きではない。まるで鮭が自然と川へ遡流するように、私が軽井沢を思い浮かべる時は、いつでも心静かだからだ。