仕事と言えば、呼吸もできなくなるほど詰まっていたが、こんな時は仕事をしないで脳を開放するとよい。私はこの日、朝早く起きて鎌倉へ向かった。
軽井沢や信州、もしくは京都の紅葉しか刷り込まれていない脳に、まさか12月11日に鎌倉でこれほど美しい紅葉があるとは信じられなかったらしい。感動を自分の脳のせいにしている私自身の脳も驚くほど、鎌倉の紅葉は美しかった。
普通なら鎌倉を歩くには歩くことを覚悟して日程を組むらしいが横着な私は、いつも北鎌倉駅で降りて円覚寺を見て、それから近くの東慶寺を見て、それで終わってしまうのが普通である。この日はせめて杉本寺まで足を伸ばそうと思ったが、またもや東慶寺で轟沈してしまった。
それで十分であった。今回は円覚寺を奥のほうまで進んだ。この庵は美しい佇まいをみせている。
この庵は竹やぶの中にある。竹林に広葉樹があって紅葉している。庵は仏と一緒にこの竹林の片隅にあって見学者を拒んでいる。見学者の誘導看板を立てて見学料をとるよりもよほどいさぎがよい。
この庵は高い丘にあって、急な階段を登ってようやくたどり着く。そうした苦労を重ねる人々に自然は紅葉を撒いて遍路の心を慰める。たどり着いたらここは公開していませんから戻りなさいと冷たく突き放す。それでも門は開けてあって、寒椿や柚子が生る柑橘の木が色なす風景を楽しませてくれる。
それから線路沿いを少しだけ歩いて東慶寺に向かった。ご存知のように江戸時代は駆け込み寺として女性救済に法的な権限を持っていた名刹である。むかしは女性から離婚を申し出ることはできず、男性は三行半の書付を渡すだけで離婚ができた。離婚できない女性が家から逃げてここ東慶寺に駆け込めば、追っ手はそれ以上追いかけることはできなかった。ここ尼寺で一定期間修行をすれば離婚は成立した。女性は離婚後一定期間は婚姻をできないとするルールになって東慶寺のルールは今に残っている。
私は一時期、この寺が催す和楽器の調べと食事会に毎月参加をしていた。寺が作る食事を食べて薩摩琵琶を聴くとか、横笛を聴くなどの催しである。そんなことを思い出しながら私はこの寺の墓地を歩いた
この墓地は、美しい。名だたる著名人が永眠する場だ。もちろん本人は分からない。生きて残った人々が故人に対する評価を記すために、そして心の安寧を得るために立派な墓を建てる。そのなかで私は田村俊子のようなひっそりとした墓が良いと思う。(下のお地蔵さんのは田村俊子の墓ではありません)
私は葬式不用 戒名不用と残した白洲次郎の生き方が一番共感できる。その白洲次郎は大好きであった軽井沢でも鶴川でもなく、兵庫県三田市にある墓地に白洲正子と眠っている。
私は教団を信じず、釈迦の経を信じる。私は無宗教、無信仰を貫いているが、こうして時折名刹の墓地に立って、出逢いと別れ、死ぬことと生きることを考え続ける。自然はもっとストレートに生きることを死ぬことを教えてくれる。私はいくつもの経を読んで釈迦と直接につながろうとしている。
希望や目標をどこに置くかで、希望や目標を実現できるよう自分の現実を換えていくことができる。自分の現実を変えるには自己が持っている事実を変えるしかない。どう生きるかということは希望や目標をどこに置くのかに掛かっている。
事実とは時に私欲のことである。もちろん事実は私欲だけではない。持って生まれたDNA、育った環境、性格などさまざまな客観要因が事実をつくる。けれども時に私欲が私の事実を形作り、その成果が「私」の現実を創ることは多い。私が目標通りにことが進まないとしたら現実の形が悪いのであり、もしも私がどうしても希望や目標を達成したければ、私は自分の欲を希望や目標に向けて修正しなければならないことになる。そうしなければ私欲は失意のうちに終わる。
けれども私欲がなければ私の希望も目標も生まれないかもしれない。ここが凡人の厄介なところだ。
希望への道標こそが、私は釈迦の教えであり、キリストの教えであり、マホメッドの教えであると思う。いまの時代は生命のすべてが科学的に解明されたのだから私は教団を否定する。私は釈迦と直接につながり、自問自答を繰り返し、自分の事実を修正していけば良いと思う。これは思想であり、ちょっと偉そうな言い方をすれば哲学である。
私はこの夜、忘年会があった。会場はかつての花柳界、上野の下谷にあった。私は横に座った人の勧め上手に乗っていつもよりたくさん食べてたくさん飲んだ。私はほろ酔いになり、屈託のない笑顔をした。ここは私よりも生も死も哲学も思想も盛り沢山ある人たちの集まりであったが、年齢や考え方を超越して笑顔が溢れていた。こうして今日も一日が始まり、終わった。