モノにはココロ度とモノ度がある。度数は人によって違う。例えば冷蔵庫なんて買い換えて古い冷蔵庫を持ち去られても哀しいと思う人はいない。冷蔵庫はモノ度100%、ココロ度0%の商品だからだ。
一方、自動車はココロ度50%、モノ度50%の製品だ。愛惜の思いを残しながら下取りに出されるクルマとの別れをする人は多い。
人がモノを捨てきれないでいるのはモノの中にココロ度があるからだ。子どもが着た服を捨てられない母親がいるのは、衣類に子どもの小さな思い出がたくさん詰まっているからだ。
価値は価値を認める人以外に存在しない。それがわかるのは人生を経験してからだ。モノに価値があるのは特別な商品でない限り、あとは自分の心にあるだけだ。なんでも鑑定団の評価は・・・あれを信じている人もいるだろうが、ほとんどが作り物の金額である。あの価格は売り価格なのか、買い価格なのか。それを明らかにしない。私は数百万円の値が付いたある油絵がオークションではその10%以下の価格で売買されていることも知っている。
価値とは何かを論じるとむずかしい話になるから止めるが、私たち庶民が手にする多くのモノには、モノの価値よりココロで感じる価値の方が大きい。それでよいのである。
私の事務所は絵画に囲まれている。だからたまに絵を眺めて心を慰めることができる。よい絵とよくない絵が区別できるようになる。それでよいのである。それがいくらの価値があるとか、自分はどれくらい愛しているのかと考える必要はないのだ。もしもその絵を捨てられたくないのなら、その絵を好きな人に差し上げることだ。今すぐでなくてもよいのだが約束をすることだ。
もしも価値あるものは現金だけだと、お金だけを貯めて生きて死んだ人はさびしい。価値あるものは金だけだと金だけを集めて生きて死んだ人は寂しい。
モノにはモノ度とココロ度とがある。捨てられないものはすべてココロ度数が高いものばかりだ。モノを見つめ直せ。ココロを見つめ直せ。私は最近、このことを自問自答している。