愛着心とは何かと再び考えている。物事に固着しない愛は存在しないのだろうかと考えている。
固着はしないけれど、心奥深く秘めて愛を注いでいる姿はある。
「生きているといいねママお元気ですか」文に項(うな)傾(かぶ)し、幼な児眠る。
宮古市の昆愛海(こん・まなみ)ちゃん(5歳)が、いくえ不明になった母に手紙を書いているうちに眠ってしまった写真を目にして、美智子皇后が詠まれた短歌である。
物事に固着しなければ、心の中に常にとどめて置かなければならない。物事が存在しなければ忘却が愛着を消し去る。常に心にとどめ置くには容量の大きさが必要になる。人間はそれに耐ええるのか。
物事に固着したほうが、人間は楽である。そこにとどまっていればよいし、記憶容量を増やす必要もないからである。
両陛下が、東北大震災の被災地を何度も訪問し、被災者の前で膝を折って集中している姿をテレビで拝見していると両陛下は国民の膨大なる悲しみや、そして歓びの量を心の中に留めていると思う。鏡のように自分の前に立つ姿をいっぱいに映し出し、そのものが立ち去れば元の鏡に戻る。
鏡の前に犬が立てば鏡は犬になり、馬が立てば馬になり、幼児が立てば幼児になり、病弱の人が立てば、鏡は病弱の人になり切る。
その人たちが立ち去れば、鏡は一切を固着せずに元の鏡に戻る。
物事に固着しない愛は存在する。しかしそうした愛を貫こうとすると物事の量と質を背負うことになる。この荷が重い人にはできないことだ。
私には愛着心がある。いまだにいろいろな物事に愛着を持っている。
今日、事務所の物入れから忘れていたMartinのウクレレ・ビンテージ物ナザレが出てきた。すっかり忘れていたものだ。
私が老いても手の中で音楽を奏でることができると思って、よい音を出すウクレレを探し求めた。今から10年以上も前のことだ。そのためには少し練習をしておこうと買い求めたものだ。
私がこの世からいなくなれば、このウクレレが名器であることを正しく伝えなければ、この名器はごみとして処分される。私は家族に、このウクレレのことを伝えない。音楽が好きで、この価値がわかる若者に伝える。
愛着とは何か。愛着とは絶対的な価値だ。人間はこうして身の回りに集めたものを取り囲み生きている。そしていつかはすべての愛着は意味ないものに変わる。意味あるうちに価値を理解する若者に伝えることが価値を伝承することになる。
私はこれから自分のために、人が歓ぶ仕事を、たくさんしたい。それだけを自分の愛着としたい。それが終わったら、次は自分のために生きる。
都会ではなく、自然の中に身を置いて自分のために生きる。人が歓んでくれたことを糧にして自分のために生きる。このことが私の愛着である。