カッチーニのアヴェマリアを初めて聴いたのは本田美奈子の歌を通してである。それから、カッチーニのアヴェマリアをたくさん聴いたが、日本人が歌うカッチーニは、どうもなじまなかった。
そのわけが分かった。日本人の声楽家は阿ー部ーマリーアーと歌う。あきらかにあーべーマリーアーだ。
外国人はアーヴェーマリーアーと歌う。この違いだけだ。しかしベとヴェの違いでまるで変ってしまう。全編にアベマリアが繰り返されるからだ。
同じく、カッチーニ-のアベマリアを日本人がアレンジしたピアノ曲がある。私も初めて聴いたときは好きだったのだが、よく聴くと日本人が好きそうなアレンジで、言ってみればアヴェマリアを冬ソナのように編曲しているようなものだ。コードの進み方が日本人好みの感傷的なもので、これは外国人には合わないだろうと思う。別れのシーンで観客を泣かせるためにわざと作った曲と似ている。
もっと突き離さなければだめだよなと思いながら2~3回聴いたら、だんだん日本人のお涙ちょうだい的なアレンジであることが分かってきた。
日本に演歌を持ち込んだのは朝鮮の京城(今のソウル)で暮らしていた古賀政男だという説がある。哀愁を帯びた朝鮮の伝統音楽を子供のころから聴いていた古賀政男は、特に朝鮮の港町木浦(もっぽ)の港湾労働者が歌う短調のメロディーを持ち込んだ説だ。日本にはそれ以前短調のメロディーはなく、浄瑠璃のような人情噺に節をつけるものはあったにせよ、江戸時代は長調の曲だけであった。
明治時代に入っても、初期のころは長調の曲ばかりである。例えば、川上音二郎のおっぺけぺ節なども明るい曲だ。それがいつの間にか「演歌は日本人の心」になった。
日本の民謡は節回しと言葉を大事にするからあーべーマリーアとは歌わない。私も若いころに民謡の先生について唄を習ったことがある。先生は阿部マリア的な教え方は絶対にしなかった。黒田節に例をとると出だしにサーケー(酒)は飲め飲め、飲むほどにとある。サァーケェーと歌うと手厳しく怒られる。これは口伝なので書きようもないのだが抑揚をつけて唄え、サァーケェーと言ったら軽くて歌が死んでしまうと怒られる。
話を戻そう。阿部マリーアーではなく、アヴェマリーアーなのである。アヴェの歌い方で歌が変わってしまうから世界的に有名な歌手でも、ヴェ(ve)は、大変に気を使って丁寧に歌っている。日本人は全く考えずに阿部と歌っている。
アヴェマリアは、聖母マリアに、信者がマリア様こんにちわと呼びかける歌だ。もっと敬虔な気持ちを表現しなければいけない歌だ。静かに曲に入ってマリアを信ずる心がだんだんと盛り上がっていく歌だ。だから出だしが大事なのである。
阿部マリーアと歌ったとたんに敬虔さも厳かさもなくなり、薄っぺらいアベマリアになってしまうのである。