上の絵は、1902年、ベートーヴェンの九番に呼応するようにクリムトが描いた三枚のベートーヴェン・フリーズ(壁画)のうち第3場面の「憧れ・歓喜・接吻」だ。
正確にいうと、ウイーン分離派最大の画家、グスタフ・クリムトが第14回分離派によるベートーヴェン展に出品したクリムトのベートーヴェン・フリーズ(壁画)である。
調べたところ、第1場面-幸福への憧れ・弱き人間の苦悩・武装した強者に対する弱者の哀願。
第2場面-敵対する勢力、
第3場面は詩に慰めを見出す憧れ(詩)・歓喜(天使たちの歓喜のコーラス)・接吻。
以上3場面によって構成されたクリムトの代表作である。
だが、神とベートーヴェンを侮辱するわいせつな絵を描いたと当時の人々から反感をかい、この壁画は長い間行方不明になっていた。発見されたのは1970年。いまはオーストリア美術館の分離派館に保存されている。ちなみに分離派とは写実主義派から分離した派という意味だ。絵画だけでなくデザインの発展でも社会貢献をした。いつの時代でも文化は分岐をして発展する。
上の素描はクリムトが1901年に描いた、ベートーヴェン・フリーズのための習作。いま、ベートーヴェン・フリーズのために描かれた習作はたった7作品が認知されているだけだ。上の素描はその中の一点だ。
ベートーヴェン・フリーズに描かれたこの顔は素描の顔をモデルにして描かれている。
クリムトは多い時には15人の女性を住まわせていて多くの女性と愛人関係であった。手元にある400ページを超えるクリムト素描・水彩画集には、人前ではとても見せられないポーズや行為を行う素描がたくさん掲載されている。まさに世紀末を飾ったエロス、退廃の画家であった。
一方でその見方はあまりにも大衆的である。ベートーヴェン・フリーズ三枚目の歓喜・接吻はものの見事に愛の歓喜をデフォルメしている。これを退廃と呼んでよいのか。
接吻を描いた<黄金期>にはたくさんの金箔を使う手法を用いていたが、この手法は日本の琳派を模倣したとの意見もある。彼は装飾家として成功したのちに画家に転じたのであって彼の作風が出る前に似た作風はなかった。上の二枚を描いてから17年後の1918年に逝去。
最後の愛人であったエミーリエは,クリムトの死後にクリムトと交わした手紙を全て処分して、生涯独身を貫いたという。
エミーリエの姿から、二人の愛は人間的な信頼関係による強い絆でつながっていたことがよくわかる。ただのデカダンス画家ではなかったのだ。