芸術家の仕事は、日常世界に境界線を引いて新たな世界観を切り出し、芸術家が表現したい主題を新たな境界線の中に表現することである。画家であれば額縁の中に絵筆を使って、文筆家であれば原稿用紙の中に言語を使って、映画監督であれば画像の中につくった世界観に、脚本と演出と俳優の演技を融合して、テーマを表現することにある。
芸術は観る人がいて存在する。時間芸術でも空間芸術でも同じだ。そのためには一定の引き留める技量がつくり手に必要となる。
原作者の是枝裕和氏は、脚本、監督、演出まで担当したのであるが、このタイトルでどれだけ観客を引き留める演出をしたのかが気になった。昔、名古屋から帰京する時に新幹線の席が取れずに2時間半ほどの余白が生まれた。そこで駅近くの映画館に飛び込んで時間をつぶした。二本立ての一本が終わって、出ようと思ったがまだ時間は余裕がある。そこで残る余白時間を二本目の頭だけ見てつぶそうと判断して席に座り直した。次はアルフレッド・ヒッチコックの「北北西に進路をとれ」であった。
最初の数分で心は鷲掴みにされた。時間はぎりぎり間に合うがどうしても席を立つことができず、画面にくぎ付けになった。万引き家族のファースト画面、万引きのシーンは無駄を省いて象徴的で分かりやすく私は一瞬にして作品の演出力と画面構成技量の高さに驚嘆した。
是枝監督は、日常の世界に何本もの境界線を引いて独自の世界観を持つ物語をつくり上げた。繁栄都市東京の内側にある日常世界と外側にある極貧困家族が繰り広げる非日常世界のはざまに引いた世界観。順法と違法のはざまに引いた境界線。道徳と不道徳のはざまに引いた境界線。境界線はこれだけではない。対立、矛盾、人間性を喪失している現代社会。生きるとは何か、善悪の判断価値、・・・地球上で人間が繰り広げている行動が巻き起こしている事柄が、載せられていて、知的レベルや民族の違いを乗り越えて一人ひとりが感じ、是枝監督が詰め込んだ表現したい主題を引き出すことができるのである。
カンヌ映画祭に出品した折に、芸術を解らないクズが、東京の恥部を世界に知らせることはみっともないとネットで批判していたが、カンヌ映画祭審査員が共鳴したのは、世界中の人間の課題として抱えているテーマを分かりやすく引き出せる時間芸術の技量の高さ、テーマの普遍性を評価した結果である。だからカンヌ映画祭の最高賞を受賞したのである。
思えば、ピカソの最大傑作ゲルニカがあれほど高く評価されるのは、あの絵から誰もが戦争の悲惨さを引き出すことができるからである。ピカソは高い技量を以って表現している。ここでゲルニカを引き出すのは万引き家族を観ながらふとスペインで観たゲルニカを思い出したからである。
物語は、サスペンスに移る。樹木希林が演じるおばあちゃんの収入源は夫の年金だというが、どうも怪しい。怪しさはおばあちゃんがおばあちゃんの子供ではない夫の子供夫婦の家に訪ねてはお金を巻き上げてい来ることや、リリーフランキーが演じる主人公がなぜ、他人のおばあちゃんと暮らしているのかが次第にわかってくる。安藤サクラが演じるリリーフランキーの妻も怪しい。
夫婦は母親から虐待されて、外に追い出された女の子を見つける。女の子は家に帰るのは嫌だと拒む。夫婦はそれじゃうちに来るかいと連れ帰る。これって誘拐じゃないのかと夫は言うが、別にお金を要求しているわけじゃないから誘拐じゃないよと妻の一言で女の子を抱える。
皆が怪しくて皆が他人で、その訳や、昔の犯罪、新たな犯罪が次第に形を見せてくる。しかし、観客は境界線の外側、日常社会から見れば檻の内側に入っている人たちのこの違法性や不道徳さ、つまり日常世界では決して許されていないことを行っている家族が正しい生き方をしていると思いはじめてくる。
安藤サクラが、私は女の子を誘拐なんかしていない。(親から)捨てられて落ちていたから拾っただけだというセリフは説得性があり、その通りだと思ってしまう。
それを証拠にネットに書き込まれた映画の評価はこの家族の生き方を肯定しているもので満ち溢れている。多くの観客が境界線を越して檻の中に入り込んでしまっているのだ。
この力は是枝裕和氏の原作と脚本力と演出力、それに俳優陣の演技力のたまものだ。主役の樹木希林、リリーフランキー、安藤サクラもみながいい。安藤サクラは誰かに似ているなと思いながら観ていたがそうだったのか。この人は良い演劇人になるな。
観客の多くは日寿生活を過ごしている檻の外側にいる人たちだ。法律を守り、道徳的に生き。社会秩序を乱さずに、周囲の目を気にしながら生きているのだろう。そうでない人もいるかもしれないが。その人たちが決して入り込まないであろう、境界線の外側に入り込んで、自分なりの解釈で法を破り、家族が行うすべての行動を許す生活に共感し、自分もいつか檻の中に住む一員になってしまう。そんな映画だ。
人間は、いつでも檻の外にいて(境界線の中にいて)難民や、戦争被災者や、原発事故被災者や、水害被災者や、貧困者や、障碍者や、肌の違う人たちや、異民族を形而上の檻の中に押し込めてその間に境界線を引いてしまっている。
日本はこの民族の特質として島国に住んでいるから、島の中と島の外のはざまを引いて分けやすい。しかし、境界線はいつでも簡単に変わってしまうものだ。
西日本の水害で被災者たちの多くは避難勧告が発令されても非難しなかった。うちに限ってそんな水難はないと思っていた。200年の一度の水害が今回であるとは思わなかった。だが被災者になってしまった。一瞬で檻の外から檻の中に境界線が変わってしまったのだ。
大会社に勤務したから安心と思っていた人が、退職し非正規雇用しか見つからず、再就職できないことが日常になっている。一瞬として檻の外から檻の中に入ってしまったのである。
大地震がいつ起こっても不思議ではないと地震学者が警鐘を鳴らしている日本で、原発が何基か破壊されれば多くの日本人は、生き残っても地獄絵図のような風景が繰り広げられるだけだ。
是枝監督は、この境界線を突き付けている。もっと自由になることだ。境界線を行き来せよ。境界線の向こう側のことを理解しないから、内側のことも理解できない。これらは比較によって生まれるものだ。
是枝監督は自身の目論見通りに進んで境界線汚存在を見せることにに大成功した。
万引き家族を評価するのに時間が必要だった。一言で整理ができないからである。整理ができなければ群盲象を撫でる表現しかできない。私は、昔釜山で経験した境界線の出来事をヒントにして万引き家族を理解した。他の見方もあるだろう。それだけ万引き家族はいろいろなことを引き出せる。
最後に、リリーフランキーの妻を演じた安藤サクラは、奥田瑛二と安藤和津が両親と知った。誰かに似ていると思っていたら、母親にそっくりだ。繰り返すが、いい演劇人になる。
名書は4回読み直すと理解できると言う。私も好きな映画は4回は観ることにしている。一回観ただけでは気付かなかったことが次第にわかってくる。あと3回観たら稚拙なこの鑑賞論も、だいぶ変わってくるだろう。