ただいま単行本原稿執筆中である。わが春日庵はこのような仕事にはまことに都合がよい。テーマは、マーケティング関連である。
詳しく書くとネットでモノを販売している企業が打つ手はなくて売り上げが伸びないので、それを解決するためのノウハウが詰まった本である。
しかし、この手のビジネス書は書店で売れていない。それどころか、ビジネス書コーナーが無くなってしまった書店の多さよ。取って代わったのが自己啓発本だ。先行き不安な日本の様子を見て、スキルをあげたい若者がスキルアップの本を読んでいるのだろう。とんでもない時代になったものだ。
だから私は、親しい編集員のところに持ち込んでも出版の可能性は極めて低い本の原稿を作成している。
編集者もどうにも手が打てない。大手の書店から手に入るPOS情報で、どのような本が出てどのように売れているかが一目瞭然にリアルタイムで手に入る。編集会議でこの本のジャンルは売れ行きは低いと数値で把握できてしまうのだ。
上の本は、今月購入したデータベース関連の古い本である。もはや学者でなければ読む必要もない本を探し求めて購入して読んでいる。
そして、いままでは、一気に書いていたものを、いまは文章を差し替え、順序を変え、いかにしたら読者が書店で手にしてくれるか、さらりと見て購入してくれるかを考えながら書いているから遅々として進まない。仮に付けたタイトルも注目を浴びるように帰納法で上位を探し出してつくっている。
だが、私は一瞬(ひととき)に、活きている自分を見つけることができる。過去に縛られず、未来に捉われず、今の一瞬に精一杯活きていることを体感している。こうした時間をつくれる自分の存在を認識できることが何よりもうれしい。
もっと言えば一瞬に活きることの重さを体感できていることがうれしい。万物は一瞬を生き続ける存在である。人間とて変わりはない。しかし人間は過去に縛られ、未来に捉われ今にも拘束されて生きている。だから苦しむ。
夕方になって巣に戻る鳥は、明日を憂いているのであろうか。
私は、出版できない可能性が高い本の原稿を一瞬にかける集中力を使って懸命に書いている。それだけでいいのである。
しかも私には今もなお出版社の編集員と友人関係を結んでいる。だから持ち込めばしかるべき担当者に回して読んでもらえる。そんなつてがない人は持ち込んでも読んでもらえる術もない。
昨日は、半年前に購入したPCのキーボードに一か所トラブルがあって、その解決にDELLとマイクロソフトのコールセンターが懸命に対処してくれたが一か所のキーボタンにトラブルがあると発見されたのは偶然であって、もし偶然がなければいまだに解決しないものであった。人生いつ何が起きるかわからない。だから一瞬を活き切る以外にほかに活きる方法はないのだ。燃やされるまで死んだふりをして偽装死を続けることはできるけど、そんなのは嫌だね。