8月がまもなく終わろうとしている昼下がりに、庭に出るとエゴの実が成っていた。なんとも美しい形をした実だろうか。ここから白い花が咲きだしそうな蕾に似ている。春日の地は、1640年、春日局が将軍徳川家光から賜った土地である。局はすぐに町屋に作り直したと言う。
この庭は空中庭園である。この庭の真下は断崖絶壁で、谷底に丸ノ内線が地上に出て走っている。庭は、鉄骨を突き出してそこに土を盛って空中庭園とした。だから年に一回は東京メトロの技術者たちがこの庭を訪れて、樹木が浮いていないか、木が枯れてはいないかをチェックに入る。そんな春日にある空中庭園でも、毎年、春にはエゴの花が咲き、夏にはエゴの実が成り下がる。
唐代の詩人 劉希夷が書いたとされる詩がある
古人復た落城の東に無く
今人還た対す落花の風
年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず
言を寄す全盛の紅顔の子 応に憐れむべし半死の白頭翁。
私は自然の悠久さと比して生き物の命が短かいことに無常を感じている。
だからといって、もはや無常を感じる内心を口外しないようになった。無常観を感じ匂いを漂わせることはよい。言葉にしてはダメだ。老いれば無常になることは当たり前のことだ。だから口に出すことは野暮である。
一方で、無常を感じないで生きている老いた人を好きになることはできない。
今、本を出すべく執筆を続けているのだが、なんと20万字も書いてしまった。これを9万字に縮小する作業がある。昔はどこに何が書いてあるかを覚えていたものだが、最近はそれができない。
手術をした左目は光は戻ったものの、見えるものがぐにゅぐにゃに曲がって見える。テレビに映る顔は、誰でも粘土細工でつくった顔を両手で挟んで思い切り押しつぶし、次に頭を正面斜め左から、あごに向けて力いっぱい押したような顔に映る。だから最近は、左目をつぶり右目だけで見ている。
しかし、そのほか、体の部品がいくつも故障をしている。私はこんなことでは、決してめげないから知らん顔をして生きている。
それどころか、中世、近世の歴史を探りたくて買っている古本が山のように積み重なっている。山を崩すように読んでいて、知らないことが次々と分かるのですごく楽しい。油彩画もいまだに買い集めている。昨日は脇田和の絵をオークションで競り落とそうと夜中まで競っていたが、「よしなさいよ」と空耳が聞こえてきて思いとどまった。今朝起きたら、買えばよかったと反省しきりであった。そこで、9月に入ったら軽井沢の脇田和美術館に行こうと決心をした。つ
今は、毎朝、出勤前に春日にあるジムに毎日通っている。夜もジムに寄って筋肉を鍛えてから?帰宅する。だから体の軽いこと。目標は足腰を鍛えて山登りを来年に再開したいこと。
たった今に生きるように心がけようと思ったのは、前記した病気のおかげである。病気は悪いことではない。目を患えば目が不自由な日をおもいることができる。
無常だなんて言っていられないのである。1分一秒を大切に生きないと、ちょっと先のこともわからないからだ。
こんなたわごとは真夏の夜の夢にすぎないこともわかっている。
また今年もエゴの実がついている。山茶花が終わり椿が終わ値、さつきが終わり、エゴの花が終わった。去年の繰り返しである。
年年歳歳花相似たりだ。しかし歳歳年年人同じからずである。生き物の命は短い。だからたった今を、一瞬を生きることだと思っている。こんな当たり前のことがようやくわかってきた。