週末、軽井沢は穏やかな晩秋の中にあった。今年は軽井沢も暑い夏にあった。別荘に住む人はエアコンを注文し暑さを凌いだが、木々は気温の変化についていけずに、今年の紅葉は、葉が縮れて美しくないと知人からは知らせのメールが入っていた。
いつもの森は紅葉が終わっていた。画面中央右の、奥に見える樹が移植した大紅葉だが、すっかりと葉を落として冬支度を整えている。あと2週間早く来て欲しかったと大紅葉は語りかけているようだ。
私は移植前の緑に覆われた大紅葉を思い出していた。
隣の森にはまだ葉が落ちていない紅葉が、やや枯れかけながら最後の力を振り絞って周辺を赤く染めている。紅葉の右にはどうだんつつじの垣根があるが、もう紅葉は落ちている。どうだんつつじの紅葉はとてもきれいなのだ。
この森の奥は有名な軽井沢ゴルフクラブのコースだ。白洲次郎が理事長を務めたことで有名だが、もともとは昭和八年、徳川・・山縣・・三井・・細川・・田中実・・鳩山・・など著名人が集まってこの一帯50万坪を、軽井沢を開墾した雨宮氏から買い受け、25万坪を南ヶ丘別荘地として売り出し、その収益で残りの25万坪をコースにした経緯を持つ名門ゴルフ場である。ちなみに田中実は共同通信社、時事通信社の創業者である。後の方々は説明は不要だ。
それからジャムの沢屋が経営する「こどう」で三笠ホテルカレーを食べた。いまや重要無形文化財に指定されている三笠ホテルが、出していたカレーレシピを公開して、軽井沢の何軒かのレストランが三笠ホテルカレーをメニューに加えている。こどうは知り合いの金井建築士が設計したもので隣の森を借景とした庭が良い。私は吊り掛けているワイングラス越しに眺めるこの庭が好きだ。
こどうにも紅葉の樹があって、今年は赤くなりませんと顔なじみの店長は気候の変化を心配していた。ミニ氷河期が2013年から来ると新聞に書いてありましたよと店長に言うと彼は知らなかったと驚いていた。到底信じられませんねと店長は今年の暑さを語った。
軽井沢に住む人は気温が30度を越すと大騒ぎをする。東京では30度なら涼しいねと言う。私が東京の暑さを少しだけ話すと、もう我々には東京は住めませんと店長は真剣な顔で言った。そうだよな。私も早く軽井沢で住みたいよと相槌を打った。東京から軽井沢へ移動する人は増えている。軽井沢町は人口が19000人台に増えた。約8900世帯である。別荘は15000軒ある。定年になった人が自宅を売って3000万円くらいで土地と家を求め退職金と年金で軽井沢に住む人が増えているのである。
不景気なので高額物件需要は減っているが、売れないわけではない。築浅の一戸建てやマンションの需要は衰えていないという。軽井沢は自然豊かな非日常空間のなかに磨かれたセンスのよい料理店や、これまたびっくりの大型スーパーマーケットがあってこのような場所は日本には他にない。人が増えるのは当然なことなのだ。
最近私は、忙しさにかまけてしばらくの間、室生犀星に触れていなかった。犀星夫妻の墓は落葉の中に佇んでいる。私は犀星の詩が好きである。だから時折、この好きな人の墓に訪ねる。犀星はこよなく軽井沢を愛した。芥川や川端や追分に住む弟子の堀やその弟子の立原と共にたまらなく軽井沢を愛した。私生児として生まれ、寺に預けられて薄幸のスタートを切った犀星は独学で文学者になった。犀星が生きているときに、旧軽井沢の川辺にある土地を求め、自分でこの詩碑を設計し、自費で建立をした。ここに寄せた一遍の詩は犀星が自分で選択したものである。
詩集「つる」に収録されたこの詩は、犀星が失意のどん底にいた時に、やがてそれを乗り越えて東京都北区田端に移るのだが、その時代の心境を謳った絶唱である。犀星の死後、昔朝鮮で買ってきた石像の下に夫妻の遺骨を分骨して埋骨をしてもらった。それほどにこの地を愛したのである。あしもとをみると、楢の樹がたくさんのどんぐりを落としていた。
この日は日中の温度が11度もあり、夕方になっても9度程度であった。高速道路の吹流しは風で揺れていたが、この地に下りると風は止まっていた。軽井沢にも浅間山にも初雪が降っているのだが、その気配はこの日はなかった。しかし次第に最低気温は下がり続け、真冬にはマイナス15度、本州で一番寒い土地になる。だから人々は、薪ストーブで広葉樹を燃やして暖を取る。
この場所には、うすばしろ蝶の食草であるムラサキケマンの根がある。越年草なので姿を消しても来春には姿を現す。どこかの石を見ればうすばしろ蝶の蛹が眠っているはずだが、私はそれをしなかった。狭いこの土地にそんな自然の不思議が隠されているかと思うと、心がときめいてくる。うすばしろ蝶が密かに眠っているこの土地も光り輝いて見える。
この日、最後の紅葉を見ようと思う人々のクルマで高速道路は混んでいた。私は帳が下りた夜の7時に軽井沢町をあとにした。高坂を先頭に10キロの渋滞があったが、さすがにこの時間になると夕方のような道路混雑はない。2時間後には自宅に戻っていた。今年最後の軽井沢と思って出かけたが、もう一度訪れたいと思う。それほどに余韻が残った晩秋の軽井沢であった。