社会科の授業では、西暦1600年と言えば関が原の戦いと習ったものだ。
それから9年後の1609年、薩摩藩は徳川家康の承諾を得て5000人の兵士を奄美群島、琉球諸島へ送った。いうまでもなく今の南西諸島を植民地化するためである。
それから明治に至るまで三百年、正確には明治時代に入ってもすぐには、薩摩による支配の構図は消えなかった。明治政府は琉球諸島のことまで配慮が回らなかったためである。引き続いて歴史は奄美群島を鹿児島県に残したまま、琉球王国を強制的に日本国家に組み入れる、いわゆる琉球処分と続くのだが、琉球諸島に住む島人が味わった塗炭の苦しみをここに書くことは本意ではない。
私にとって琉球諸島は、たくさんの親しい人が暮らしている所である。私は時折リ、人と会うために沖縄や奄美を訪問する。
15世紀初頭から始まった薩摩藩侵略の話を私が始めて島人から聴いた時は、自分も中世時代の島民であるかのような気持ちで受け止め、初めて聴いた驚愕の歴史を感じ取ったものだ。薩摩藩による支配の歴史は三百年間にわたる悲惨極まりないものであった。
人は親しい人が住む地域の歴史にさえ涙を流すことができることを、私は自分が流す涙で知った。
薩摩藩は琉球が冊封体制であることを利用して中国貿易を行なうことを占領の主目的にしたがため、奄美群島は沖縄への道としか認識をしていなかった。しかし中国からさとうきびによる砂糖製造方法を入手すると、薩摩の支配下、奄美群島はさとうきび工場に化した。
島民がつくるさとうきびはすべて薩摩藩による買い上げとなった。買い上げのレートこそが植民地の法則であった。私は黒砂糖と物品の交換レートを見たが、例えば黒砂糖200斤(120kg)で鍋一つと交換とある。竹富島に住む上勢頭氏の話しに寄れば、竹富島での搾取率は、記憶では確か76%であったという。これでは民力は高まらない。奄美島民がさとうきびを口にすることはできなかった。飢えで乳が出ない母親が我が子に母乳を与えたいがために、見つかれば打ち首とわかって禁制のさとうきびを口にする姿を唄った徳之島の民謡は今でも涙せずには聴けない。
以上の話はこれからの話を書くための序である。
作家島尾敏雄は九州大学を繰上げ卒業して十八震洋特攻隊隊長として奄美に赴任する。
出発は遂に訪れず終戦を迎え、奄美で小学校教員をしていたミホと恋に落ち結婚する。
ミホは加計呂麻島の島長(しまおさ)の娘。のろの家系であった。後の作家島尾ミホである。
島尾敏雄は第二のふるさと奄美大島に対してとても重い言葉を残している。
「島人の三百年に亙る苦しみは決して無駄ではなかった。島人が作ったさとうきびで、明治維新が実現できたのだから」
事実、江戸時代に砂糖は高価な薬であった。薩摩藩は砂糖を一手に掌握したことにより巨利を得た。明治維新を動かした資金は砂糖と中国貿易で得た巨利が源泉になった事実は否定できない。
島尾の言葉には、薩摩藩に琉球諸島の支配を許した徳川家康が、三百年後に琉球諸島のさとうきびによって、倒幕されることまでが含まれている。
さとうきびが島人の悲惨な歴史を刻み込んで、三世紀の後、徳川幕府を倒すために復讐をしたともいえるのである。歴史は人に対してなんと残酷なものであろうか。
奄美群島に立って見回しても、こうした歴史は目に見えない。目に見えるのは青い空とさらに紺碧なる海と、そしてさとうきびの畑である。
しかし土地の歴史を知り、文化を知ると見えないものが見えてくる。目では見えないものを見てくることこそが、旅の醍醐味であると私は思うのであるが、いかがだろうか。