人生を旅に例える人は多いが、人生の到達点は死だと喩える人に向かって、それでは旅の途中は一体何かと問えば、徳川家康公遺訓の冒頭を持ち出して「長くて苦しい道のり」だと答える。
私は重荷を背負って長い人生を経て死んでいくのだとする人生観を持ちたくない。
誰もが行き着くように人生とは何かと振り返って考えた時に、もしも人生を旅に例えるならば、生きる目的は旅の途中に寄り道を幾つしたかではないかと思う。旅の目的は、旅の寄り道をいくつ体験するかだと。
寄り道した場所には必ず入り口と出口がある。人は決して一箇所には留まらないからだ。入り口と出口を、出逢いと別れと置き換えてもよい。
出逢いは人でなくてもよい。一冊の本でもよいし、一筆の書でもよい。一幅の絵画でもよいし、時間とともに消えていく音楽でもよい。花でもよいし、人の佇まいでもよいし、古代から続く建築物でも良い。旨いワインでもよいし、手になじんだ一本の万年筆でもよい。いや、それが死を選びたくなるほどつらく苦しいことであったとしても、それは旅の途中に出会った寄り道の一つなのだ。
こうして旅の寄り道を続けながら生きていくことが人の一生なのである。
私は出逢いを歓び、別れを感謝する。私の周りには親不孝であった自分を嘆き悲しむ人が大勢いる。私も周りの人と同じように両親から受けた、燦燦と降り注ぐ慈悲に溢れる愛情の千分の一ほどしか返せずに親を失っている。しかし物は考えようなのだ。私の両手の指は母親ゆずりで、いつも手を広げるたびに母親を思い出す。時に自分の指先をそっと触れ母の思い出に浸ることさえある。歩き方は父親譲りで町を歩いてウインドウに映った姿は、まるで自分は父ではないかと錯覚する。父の挫折を反面教師として私は同じ轍を踏まないように自分を戒める。私はとうの昔に別れた両親といつも一緒に生きているのである。
母の気性は私の娘にそのまま引き継がれ、その姿も時折母ではないかと思うほどだ。
そればかりでなく、私の孫にさえ母が生きていることを感じるのである。
私は母の指に似た自分の手をみるたびに、永遠に滅びない生命の歓びを感じる。肉体は滅びてもDNAはきちんと引き継がれているのである。
だから私は受けた愛情の小指の先ほどしか返せなかった自分の親不幸を嘆き悲しまない。
人は誰でも出逢いと別れの成果こそが今の存在である。貴方も振り返ってみるといい。これまでいくども出会いと別れを繰り返したからこそ、今の貴方が存在していることが判るはずだ。
だから、すべての旅の寄り道に無駄なことは何一つない。そのことが見えるのか、感じ取れるのか、あるいは見えないのか、感じ取れないのかの違いだけが、人生の違いを決めていく。私はそう確信をしている。
これから始まる服部隆幸流の旅の寄り道をお楽しみあれ。