「西湖飯店」は、老夫婦と娘夫婦の、四人の中国人が営んでいる中華料理店であった。西湖は彼らの故郷にある美しい湖で、その名をとって西湖飯店とした。
この家族は顧客に笑顔を絶やすことはなかった。壁には西湖の写真を飾り、「西湖はとても美しい湖」と、いつも通りの笑顔を振りまいて故郷を懐かしがっていた。
あるとき、老婦が「西湖の中に湖があるの」と神秘的な話をした。私は不思議な話を細かく追求しようともせずに、ただ、「へえ、すごいね」と答えを返した。
振り返るとまるでファンタジックであった。私は湖の中に湖があるという不思議な物語を少年のような気持ちで聴いた。西湖が他の湖とはまったく違って輝いているように思えた。それから中国のどこかにある西湖は、私にとって特別な湖になった。
西湖飯店の家族と最後に会ったのは1985年であった。この年、私は青山にコンサルティング事務所を設立した。それから目黒区にあったこの中華料理店へ行くことはなくなった。
私が杭州の西湖へ訪れるのにそれから二十余年の年月が掛かった。西湖の話はとうにどこかに仕舞い忘れていた。あるとき友人から中国に行かないかと誘いを受けた。友人は中国を詳しかった。私は過去に訪問した一通りの都市名を挙げた。「それでは杭州にしませんか。西湖がありますよ。中国でも有名な景勝地です」
私は忘れ去っていたファンタジックな西湖を突然に思い出した。私はぜひも行きたいと杭州行きを友人に請うた。
西湖周辺はグレードの高いリゾート地であった。日本でいえば箱根と軽井沢の雰囲気を持った土地であった。杭州は金持ちが多いという話は本当であった。タクシーの多くはベンツで、街にはBMW7や、大型ベンツが、ここはドイツかと錯覚をするくらい数多く走っていた。時には赤い暴れ馬があの甲高いエンジン音を奏でながら駆け抜けていた。杭州の街は相変わらずの中国であったが、湖のほとりにはいくつかの高級ホテルが木々に囲まれてあったし、喧騒なイメージは西湖のほとりにはなかった。
私は湖の中に湖があるという話を友人には伏せていた。いかにも中国らしい舟が船着場にあって観光客はこの遊覧舟に乗ることができた。ガイドは、次々と舟は巡回しているから湖にある三つの小島をゆっくりと楽しんでくださいと説明をした。
この小島の一つに湖があった。私は西湖飯店の家族がこよなく愛した西湖にいて、老婦が遠くを見つめるように語った湖の中にある湖に立っていた。赤い柵が小さな湖を取り巻いていた。私は西湖飯店の老夫婦に見せようとシャッターをずいぶんと押した。友人はなぜこれほど写真を撮っているのか分からずに撮りますねと笑った。
私は日本に戻って写真をプリントした。湖の中の湖も撮ったし西湖のほとりにある古い寺の写真も撮った。古い街並みも撮ったし、石仏も撮った。とにかくたくさんの写真を撮った。
ある日、写真をカバンに入れて大橋にある西湖飯店を訪ねた。
私はこの家族と会ったらどのような挨拶をしようかと考えてドアを開けた。しかし、家族は一人もいなかった。代が変わったのであった。
私は「見てきましたよ。これがその写真」とプリントした写真を広げるはずであった。指を折って数えると22年が流れていた。
人も花と同じように流れていく。むかし確かにここにいたからいまもそこにいるとは限らない。新しい店主が前の経営者はどこにいるか知るはずがなかった。私は苦笑いをした。「そうだよな。22年も経過しているもの」
友人から杭州に行きましょうといわれた瞬間に私は1985年のある日にタイムスリップをして時間軸を完全に失っていた。それが再び西湖飯店を訪ねることによって現代に戻った。私は西湖へはタイムマシンで訪れたことにようやく気が付いた。
やがて注文した上海焼きそばが出来上がってきた。西湖飯店でいつも食べていたメニューの一つであったが、味も器も運ぶ人も違っていた。同じなのは西湖飯店という屋号だけであった。
あの家族は、なぜに大切な西湖飯店の屋号をここに残して行ってしまったのかと思った。
あれほど夢見るような目をして語ってくれた西湖をなぜに一緒に連れて行かなかったかと思った。答える人は誰も居なかった。
私はそば代を支払い、店を後にした。やたらに人が恋しくなったが、寂しいからといって人を呼び出すことは迷惑なことだと自分を諌めた。西湖の写真は捨てもせず、アルバムに貼ろうともせず、どこかに仕舞い、そのまま忘れてしまった。あるはずの写真が見つかっても、その写真が何の目的でプリントされたのか、私以外に知る人は誰一人いない。