私の家には「長崎県士族 服部惣右衛門」と書いた長崎県が発行した古文書がある。士族とは徳川幕府の時代に武士であったとする身分証明のようなもので、士農工商の身分制度が四民平等になって、不満を持つ侍達に与えた名誉称号のようなものである。廃藩置県後、職と身分を失い苦労をした(昔は武士であった)人たちにとって、士族の称号は唯一、精神のよりどころであったに違いない。私にとって惣右衛門は祖祖父にあたる。祖祖父とは父のおじいさん(祖父)のことである。幕末から明治初頭に生きた人である。そこで父方の先祖が長崎県士族であることは分かっていたが、長崎の何藩なのかは皆目分からないでいた。昔は島原藩、平戸藩、鍋島の三藩が長崎あたりに存在していた。何藩の士族かは服部一族に知る人は無く、なぞの一つであった。
私は学校を卒業後、会社に入社したことが縁で、ある高名な洋画家を知ることとなる。それから20年後、その会社を退職したことでその洋画家と再会することとなる。洋画家はいつも、音楽家のハマクラさん、異端の画家鶴岡政男さん、時には作家の水上勉さん、瀬戸内晴美さんなどと一緒に飲んでいた。再会は私がコンサルタント事務所を設立してからのことである。再会と思ったのは私だけであって洋画家は私を記憶していなかった。当然のことである。
洋画家は長崎県出身であるといった。私の父も長崎生まれであると言って、先祖は長崎県士族としか分かっていないと、洋画家に古文書の話をした。
その古文書のコピーが欲しい。僕が調べてあげようと洋画家は言い、話が弾んだ。洋画家はコピーしたものを島原市役所へ送付した。諫早市の出身なら島原藩かもしれないという仮説を立てたのであった。
私が熊本の会社へ仕事で行っている時、洋画家から電話が欲しいとメッセージが入った。「君の先祖がわかった。島原松平藩だ。僕と一緒だ。僕はこれから島原へ行くので君が熊本へいるなら来ることはできないか。すぐに連絡をしてくれ」私は翌日、はやる心を抑えてフェリーで島原へ向かった。松平藩の菩提寺が本光寺である。本光寺で洋画家は私を待っていた。住職はまるで昨日の出来事のように服部惣右衛門とその父の話をした。こうして私の先祖がわかった。色々な資料を貰った。惣右衛門の父の墓に案内をしてもらった。私はこれまで生きてきた何か一つでも歯車が狂っていたらこの発見はなかったと思った。奇しき縁が連綿とつながったおかげであった。今まで生きてきた頂点にこの時があると思った。この一件で洋画家とは距離が縮まって一層親しくなった。
2005年のことであった。結婚が決まった長女が、自分のルーツを知りたいと言い出した。私は島原のことを家族に伝承する必要があると思っていたので、そこで娘を連れて島原にある本光寺へ向かった。 島原は天草の乱で有名な土地である。本光寺とて無縁ではない。本光寺にある地蔵は首がない。天草の乱で一揆を起こしたキリシタン農民の手で落とされたものだという説明看板があった。本光寺は代が二代替わっていた。「天草の乱のあと幕府は京都福知山にいた松平を島原へ差し向けこの地を天領地としたのだよ」と、あの時、まるで昨日のことのように話をしてくれた老師も、その息子もこの世にはいなかった。老師にとって孫に当たる青年が住職であった。私は洋画家から奉納したと聞いていた二枚の大きな油彩画を拝観した。私にとってはこの絵を観ることが一つの目的でもあった。100号の感動的な力作であった。
私は住職に惣右衛門の屋敷跡を訊ね、その地を訪ねた。惣右衛門の屋敷は城内と呼ばれる城壁の内にあった。娘は惣右衛門が暮らした土地の前に立って、この人がいなければ父も私もこの世にいなかったのねと感慨に耽った。
それから雲仙へ行って雲仙観光ホテルに宿泊した。雲仙は長崎に居住した外国人の避暑地として栄えた、いわば軽井沢のような地である。洋画家は雲仙観光ホテルは歴史的なホテルであるのだから雲仙へ行くのなら雲仙観光ホテルで泊まれと口癖のように言っていた。私はそうすると答えていた。その約束をようやく果たした。
古びた風情は上高地帝国ホテルに似ていた。私は娘と同室の狭いスタンダードツインルームで泊まった。嬉々としていた娘の姿を見て結婚を控え、父と旅行がしたかったのだろうと思った。こういう旅を親子の婚前旅行とはいわないかなと私は笑った。いわないよ。でも確かに親子の婚前旅行だねと娘も笑った。翌日はバスで小浜へ抜けて長崎駅に向かうコースをとった。そして大浦にある観光ホテルで二泊目の夜を過ごした。
私は初めて長崎を訪れた娘のために知っている限りの場所を案内した。そして君の祖父はこの天主堂の前の道を毎日歩いたそうだよと、知っている限りの話を娘に伝えた。
死んだ人は思い出してくれた人の心の中で生き続けることができる。古文書に名前を残している服部惣右衛門は、一世紀後に子孫の親子が、江戸から島原の地を訪ねて来るとは思いもよらぬことであったろうと思った。しかし惣右衛門が今、どこで眠っているのか私たちには分からない。父の妹にあたる叔母から先祖が眠る寺名を聞いて、かつて訪ねたことがあるが、そのような墓はないと住職夫人から否定された。武士の商法とはよく言ったものである。プライドの高い人たちに商売はできなかった。
今のように会社勤務ができるわけでなく、農業をやるにも農地を持っていなかった。職を失った人たちは困窮した。持っている刀を二束三文で売り、着物を売って食いつないだ。明治維新は明治革命と言い換えても良いと私は思う。革命が起きれば古い体制の人々は排除される。とにかく大変な時期であったのだろうと思っている。
観光地となっている教会の売店で、娘は何かプレゼントをすると言った。私は英国の紋章が入ったキーフォルダーを選んだ。それでいいの?そのマークはスコットランドの紋章だよ。長崎とは関係ない品物だよ、と娘は言った。娘は英国に5年間留学をしていた。その想いを込めて私はこのキーフォルダーを選んだのであった。私はこれでよいと答えを返した。
私のクルマの鍵はこのキーフォルダーにつけている。娘との先祖を訪ねる旅行が確かにあったことを示す、唯一の記章になっている。めったに乗らないクルマだからキーフォルダーはいつでも真新しいままである。娘は一子の母となったが、この真新しいキーフォルダーを持つ度に、私は結婚前に娘と長崎旅行したことや、時には父や惣右衛門まで生き生きといつも真新しく、昨日のことのように思い出すのである。