にっぽん丸に乗りませんか。商船三井のにっぽん丸を担当する部署から連絡があった。私は商船三井の仕事を受けていた。船旅は経験が無かった。フェリーの旅はたくさんあるが、豪華客船の旅は経験していなかった。コースは伊豆七島の先まで行って戻ってくる2泊3日の旅であった。この旅の経験は仕事に活かすことになる。遊びではなく営業現場視察の旅であった。一人では寂しいでしょうから、ご家族と一緒にいかがですかと担当部署から気を配ったアドバイスがあった。
外国航路が多いところから横浜港の大桟橋は、外国人の発音に倣ってメリケン波止場と呼ばれていた。藤浦洸作詞、服部良一作曲で、淡谷のり子が唄った別れのブルースに出てくるメリケン波止場は、この大桟橋のことである。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える」と唄って大桟橋の名前を世に知らしめた。
別れのブルースは踊り子が、窓越しに見えるメリケン波止場から聞こえる出船のどらの音を船員とのほのかな感情の終わりと切なく唄う。昔のメリケン波止場はそんな唄が似合う哀しさを秘めていたが、新しいメリケン波止場は一切の感傷を打ち消した明るく木張りの近代的な建築であった。大桟橋はイギリスの建築家、アレハンドロ・ザエラ・ポロ氏 、ファッシド・ムサヴィ氏が設計したそれは美しい桟橋に生まれ変わっていた。
乗船チケットを係員に渡して桟橋から見るにっぽん丸は巨大であった。カメラを船体に向けたがほんの一部しか写せなかった。船員はどらを叩いてにっぽん丸は静かに出航した。別れのテープがとんだ。
陸では見えないメリケン波止場の姿を写し、ベイブリッジを船から写した。
おりしも低気圧が急速に発達し台風ほどの勢力を持ちながら八丈島へ急接近している情報が船内放送で流された。本州 は大きな寒気団で大雪になると予報されていた。このようなケースでは海は大荒れになると放送で言った。そのため進路を変更して船は中部セントレア空港へ目指すことになった。
もともとこのコースは寄港地がなかった。女性社員が発案した新しい船旅のスタイルで、船内はイタリアンカラーで統一し、餐、美、癒の三つをテーマにしてお客様に楽しんでいただこうという企画であった。だから伊豆七島が愛知県に変更しようと何一つこの船旅に問題はまったく発生しなかった。
船内では睡眠時間を外せばたったいま、どこかのイベントに参加しようと思えば何かがやっていた。休むひまがないほどのおもてなしの企画が満載されていた。
岸朝子氏のフードトークがあって、同時に彼女が素材を選定して2泊3日の料理は作られていた。テノール歌手中鉢聡氏の独唱会もあった。デューク更家氏のウォーキングセミナーもあった。ヘアー&メークのアドバイスセミナーと、アーティストMASA氏によるワンポイントアドバイスもあった。それだけではなく、ジェラードタイプ、チョコレートタイム、ケーキタイム、珈琲タイム、バータイムなど、いつもどこかで何かをやっていた。私は、仕事を忘れてすっかりクルージングの虜になってしまった。
一言で言えば、ベッドルームがいつもそこにある旅であった。イベントにはベッドルームから直行できる。疲れたらすぐベッドルームに戻れる。これはすごい旅行だと思った。
普通の旅ではそうはいかない。ましてや団体旅行ではコースを巡らないとホテルに到着しない。その点、船旅はいつでも部屋に戻れる。いつでも部屋からでることができる。自由さがなによりも快適であった。
にっぽん丸は時速18ノットで航行した。私は若い頃小型船舶操縦士の資格をとるべく受験勉強をしたことがある。そこで1ノットが1852メートルであり、この長さは地球の緯度一分の距離であることを学んだ。18ノットとは緯度18分を一時間で航行する速さである。キロメートルに直すと時速33.3キロメートルになる。
幸いにも台湾坊主の高波は追い波であった。だから大きな揺れはなかった。船は駿河湾をぐるぐると回っていた。部屋のテレビから船がどこにいるのかが分かるようになっていた。
翌朝、八点鐘で私は目が醒めた。朝の八時であることを知らせる鐘の音である。
午前10時に船長に会った。船長中山重正氏は私を船長室に招いた。
中山船長は三重県鳥羽の生まれであった。伊勢湾を行く大きな船を見て、いつかは自分も船乗りになって世界を旅したいと思うようになった。
まず思うこと、思ったら実行すること。これこそが成功の鍵である。中山船長は思って実行したのである。国立鳥羽高等商船専門学校へ入学、客船科を選んだ。貨物を運ぶ船なら気象海象と、貨物の状態だけをみればよいのだが、客船はお客様を安全に、しかも満足いただけるように最大限に気を配ることが重要なこととなる。
「私はお客様が心から喜んでいただける客船の船長になるのだと子供心に思っていたのです。五年間勉強をして卒業をすると、私は日本移住船株式会社に入社し貨客船の四等航海士(フォースオフィサー)となって船乗りの第一歩を踏み出しました。夢を実現するための第一歩でもありました。この船会社はブラジル丸、アルゼンチナ丸を保有してブラジルやアルゼンチンに、お客様と貨物を運ぶことを行っていました。
横浜の大桟橋を出航して、ハワイ、ロスを経由し、パナマ運河を通ってブラジルへ寄港し、帰路はサンフランシスコにも寄港してお客様と貨物を乗せて日本に戻る航路でした。
私は日本移住船株式会社の一期生でした。入社して半年後に会社名が変わりました。新しい会社名は、商船三井客船です。そしてアルゼンチナ丸はにっぽん丸と名前を変えました。船長になるには国家試験に合格する必要があります。船長にも船の大きさでさまざまな資格グレードがございます。私は夢を実現するために勉強をして船長の資格をとりました。おかげさまでこうして、にっぽん丸の船長をやっております」
私は船長にエンジンの馬力を聴いた。10450馬力のエンジンが2機ついていると船長は答えた。 当然なことですが船のスペックは頭に叩き込んでいますと笑った。全長は166.6メートル、幅は24メートルであるといった。そこに184室の部屋があって最大で532名が宿泊できるといった。船は水の抵抗を受けて走るのでクルマに例えるといつもギア比が低いローの状態で走る。総トン数21903トンの船を20900馬力のエンジンで動かすのであった。中山船長はお客様の顔をできる限り憶えようと試みているといった。
それから私を操舵室へ案内し、海図に航路を示すやり方を説明した。全身全霊で集中して心暖まるおもてなしをしていただいた。
船旅ならこうして世界一周をすることも簡単に出来ると思った。私は船で世界一周をする楽しさが想像できた。身体を動かしての移動も、時差の影響もない。実にゆっくりと確実に楽しく世界一周ができる。私は世界一周の旅をいつか実現したいと思った。
にっぽん丸は2泊3日の航路を終えて再びベイブリッジをくぐってメリケン波止場に戻ってきた。私は駐車場に泊めてあったクルマで高速道路を突っ走り、自宅へ戻った。
この船旅は夢の中であった出来事のように思えた。旅の疲労感はまったくなく、ちょっとそこらから戻ってきた感じであった。
でも中山船長やアルゼンチナ丸の話をこうしてできることは、にっぽん丸の出来事が決して夢ではないことの証明でもある。豪華客船による船旅は、ぜひともお薦めしたい旅の仕方である。私はいまでも世界一周の船旅を夢見ている。