絶対に掛けるはずがない鰻(うなぎ)屋の店主が私に電話をよこした。
私が22歳の時から通っている、なじみの鰻屋である。
店主の名は宏さんである。彼の母親が気風のいい人で、息子と同じ歳の私を、その頃から息子と同じように可愛がった。メニューにはない料理をさっと作って、おいしいから食べなさいといって出してくれた。言葉はさっぱりとしていたが、ココロで受け止めて、ココロで返す人だった。言葉で語らず目で語る人であった。私にとっても母親のような人であった。無礼にも、とっさに訃報かと思ったがそうではなかった。
今月一杯で店を閉める。連絡しないでやめてしまうのもあまりにも不義理と思って電話をした。これが宏さんが説明をした精一杯の話であった。
詳しく訊けば、大橋ジャンクションの関係で店が立ち退きになるということであった。
私は、高校時代からの親友を誘って大橋うなぎへ最後の鰻を食べにいった。親友は山梨の一宮で飛び切り旨い桃をつくる農園を経営している岩間さんを連れて来た。私も夏になると岩間さんに注文をして彼が作る桃を食べている。
大橋ジャンクションは、例えば東名から入ってきたクルマが首都高の環状線に入らなくても中央高速などへ入れるようにするためのジャンクションである。現場を見て予想を越えて大きな工事に私は驚いた。大橋交差点を中目黒方向に左折した旧山手通り右側一体はほぼジャンクションに取って代わっていた。
私は半蔵門線経由で田園都市線池尻大橋駅で下車した。目黒川は桜が咲いていた。
川沿いに歩いて工事中のジャンクションをぐるりと回って旧山手通りにでた。
宏さんは遠方をすいませんと挨拶をした。それから宏さんが焼いた最後のうな重を食べた。
「もう人のために働くことは止めた。自分のための時間を使うのだ」と、嘯いていたが、私は宏さんの本心を知っていた。彼は涙をこらえて仕事をしていた。43年も付き合っているとココロのひだまでお見通しである。母親似の宏さんに、口先だけの言葉は不要であった。
私達3人は雑談に花が咲き、宏さんは宏さんで次々と最後の鰻を食べにくるなじみ客に精一杯のもてなしをしていた。
ふと手が空いた宏さんに、私は「寂しいだろう」と声を掛けた。
彼は言葉を発せなかった。図星のパンチを食らったように、しばらくは両足を広げて立ち尽くしていた。それからそのパンチがなじむまでの時間を経て「うん、寂しい」といって、めがねを外し右腕で涙をぬぐった。
「だれもが経験することだ。宏さん一人だけが寂しい思いをしているわけではない」と、私が言葉を返した。宏さんは「うん」と言った。自分に言い聞かせるようであった、事実そうであった。だれもが遅かれ早かれ体験することなのだ。
最後のうな重を食べたあと、宏さんはこう言った。
「お袋に、服部さんが来るよと言ったら、そうかいと言っていたよ。車椅子だけど頭はしっかりしているからね」
母親は昔からこういう人だった。きっと私との思い出を一杯にめぐらしているに違いなかった。母親の言葉を語った宏さんの一言だけで、私にとって十分すぎる別れができた。浮かんできた涙を気づかれないように私は足早に外へ出た。
目黒川に沿ってきたのでわからなかったが、工事は、大橋うなぎの数軒手前まで迫っていた。あとわずかで店は取り壊されやがて、店があった場所はジャンクションの一部に巻き込まれる。昔、ここに旨い鰻屋があったことなど、やがてだれも知らないことになる。ましてや宏さん親子の歴史がこの場所に詰まっていることなど誰一人知る由もない。私達は246号の陸橋に登って振り返った。大きな工事であった。都会の再開発はこうして人々の人生を飲み込む。宏さんにとって仕事を止めることは仕事とも別れ、店とも別れ、なじみの顧客とも別れることであった。私は宏さんと別れ、店と別れ、何よりも母親と旨いうな重との別れであった。
別れを交わした夜は、いつもの夜と違って寝付かれず、私は井上陽水やさだまさしのDVDやCDをBOSSで聴いた。それでも眠気はこなかった。次に本田美奈子のCDアベマリアを聴いた。とうとうブラームスの3番やエリック・サティを引っ張り出して聴いた。難解なサティがこれほどココロに響いたことはなかった。目は冴えていた。やがてしらじらと夜が明け始め、障子が青みを帯びてきた。私はこれではいけないと冴えたまま寝床にもぐった。母と一緒に鰻一筋で生きてきた宏さんが、人生の半ばで、これまで歩んできた歴史の場を捨てることのやるせなさを、私はよく分かるのであった。
こうして私にとって、旅の寄り道の一つが終わった。