桜はなぜ寺に似合うのか。
桜が満開になったある昼下がり、私は事務所から5分くらい歩けば到着する伝通院境内を散策した。目的は清河八郎の墓所を訪ねることであったが、おだやかな春の風が吹く境内を、歩きながら私は、なぜ桜は寺に似合うのかを考えていた。
伝通院は徳川家ゆかりの寺で徳川家の女性や幼児が眠っている。もともとは浄土宗の寺で開祖は法然上人。無量山寿経寺と名前が付いていたが、家康の母堂「於大の方」が埋葬されることになって幕府の庇護を受け、いまは無量山傳通院寿経寺と称している。ここは高台であったから寛永寺とともに江戸城からもよく見えたのであろう。それがこの地を「於大の方」の墓所と選んだ理由であると思う。
千姫も伝通院に眠っている。千姫は徳川秀忠の娘で、家康の孫にあたる。豊臣勝頼の正室になるが、夏の陣で落城する大阪城から家康の命令で津和野藩主、坂崎直盛によって救出されるとされている。真偽のことはわからない。
大きな桜の木の下にある、この墓所こそは清河八郎と、妻阿連(おれん)のものである。幕末の志士清河八郎は何冊もの本になって語られている。そもそもは山形の名家、斉藤家の出身であったが、桜田門の変を契機に、攘夷論に心を奪われ身を投じる。儒教を学び、千葉周作の道場で北辰一刀流免許皆伝の腕前である。巷説では公武合体型の攘夷論を唱えていたらしいが、当時は尊皇攘夷は倒幕につながるところから、やがて幕府に追われることになり、八郎は潜伏する。しかし阿連は捕われ、厳しい責めにも口を割らず耐えて獄中死する。
「御代の為 抜け出し人のいもなれば
身を捨ててこそ 名をばとどめん」
という歌を八郎は残している。抜け出し人とは潜伏中の自分のこと。いもとは妻のことで、芋ではなく妹のいもである。
八郎は寺田屋事件に失望し、やがて幕府に取り入り上洛する徳川家警護を目的として浪士組を結成。上洛後浪士組を攘夷派に転向するべく仲間を説得するが佐幕派である近藤勇らと衝突し江戸に戻される。再び危険人物と付回され、志半ばで佐幕派によって麻布一の橋で暗殺される。自らが盟主となり次に袂を別った浪士組は、京都で新撰組になる。
思えば浪士組264名は伝通院門前で決起集会をやってその足で京都へ向かったその伝通院が自身の永い眠りの地になるとは、清河八郎は知る由もなかったろう。
尊皇攘夷とは、天皇の御代を打ち立て列強諸国を排除すると言う意味である。
尊皇攘夷を御旗にして倒幕したものの、明治になって攘夷論は消え失せ、明治政府は外国文化を積極的に取り入れた。鹿鳴館がそのことを物語っている。列強諸国を排除することなど世界情勢を見れば夢物語で不可能と知ったわけである。ここで日本は尊王開国に変身し、攘夷は富国強兵政策に変わる。
「攘夷の大志を実現するために、妻の屍を乗り越えて改革をやり遂げる」と歌を読んだ詠んだ清河八郎は、その後日本がどう進んでいったかを知れば、亡失の涙を流すであろう。歴史を見定めるには人の命は短すぎる。ペリーが6隻の黒船を引き連れて開国を迫ったからこそ開国論と攘夷論が出てきたのであるが、鎖国政策により軍事力が圧倒的に劣って通用しない当時に攘夷論は、米軍を相手に竹やりで最後の一人まで戦うと練習をした太平洋戦争末期の精神論と似通っている。しかしそのエネルギーが維新につながった。
墓石には貞女阿連と刻まれている。後に斉藤家によって建立されたものである。二つの墓石は相似している。阿連が遊女であったことから、二人の結婚に庄内の大庄屋である実家、親族は大反対したが、過酷な責めに耐えたことで貞女の名が付いた。ここに後世の斉藤家が抱く、阿連像を見て知ることができる。八郎は潜伏し、阿連は捕われてからこの二人は二度と逢うことはなかった。死していま、夫婦は一対の墓碑となって並んでいる。八郎は33歳に満たない短い命であった。
かつて野火止の平林寺を散策した折に、松永安佐エ門の墓所があった。中部電力中興の祖と呼ばれた経済人で、財界人、知識人としてあまりにも有名な人である。
ちょうど品のよい老夫人と40半ばの女性が墓所で花を活けていた。
私は挨拶をすると老婦人はこう言った。
「あなたはこの仏をご存知ですか」
『はい。大変有名な方でしたから、お名前だけは存じ上げております』
「そうですか。私はこの仏の弟の連れ合いで、この人は私の姪にあたります。あなたね。生きているうちが花なのよ。死んで花実が咲くのなら、お墓の中は花だらけよ」
寺に桜が似合うとすれば、思いを果たせずに死んでいった人たちのために、桜が代わって花実を咲かせているのかも知れない。これが伝通院を歩きながら考えた私流の結論である。
寺を歩くたびに私は一時一所にすべてを託す思いで生きることを強く確認する。老婦人のいうように人はだれでも死んで花実は咲かないのである。墓所はそのことを事実として生きるものに突きつけている。