長い間、青島(チンタオ)ビールがなぜ存在するのか不思議でたまらなかった。
青島ビールは中華料理店で売られているにがみのないビールで、薄い緑色の小瓶はエキゾチックで大正浪漫そのものの美しさがある。
飲んでいる時は不思議なビールと思いつつも、不思議と思うのは飲んでいる間だから、酔いがさめても調べることはなく、そのまま何十年かを過ごしてきた。
友人から、「チンタオに行きませんか?」と誘われた時に、あの不思議なビールを造っている街かと、ふと思い出した。
「チンタオはどこにあるんです?」と訊ねたら、友人は「山東半島です」と即答した。
「行きましょうか」これで旅行が決まって、スケジュールの調整をした。
中国は奥地に入らない限り、週末を使って2泊3日の旅と決めている。
青島市は、旧市街と新市街があってこの二つは明確に分かれ、新市街は極めて最近出来上がったところである。
ガイドの日本人は、若い青年であった。中国に来て若い女性社長の小さな会社で働いていると言った。高層ビルが建ち並び、滑走路のような通りが走る新市街を、「ここは最近、街になった所です」と言った。
「あそこに見えるジャスコは、豚舎の跡に建てたものです。ジャスコの後ろに建っているビルは青島で一番の高級ホテルです。青島市の郊外があっという間に新市街になってしまいました。ここはオリンピックではヨットレースの会場になりますから、ありのままの中国を見せたくなかったのでしょう」と、説明をした。
「味も素っ気もないところですね。中国はこんな街をあちこちに作っていますが、アメリカの物まねでもないし、国籍不明ですね。」と、私は答えを返した。
ガイドは、「その代わり青島市の旧市街はドイツの街並みがそのまま残っています」と笑った。
その通りであった。青島の旧市街はドイツに似た街であった。
「1898年、ドイツが青島を租借し、軍隊をいれて街をドイツ市街に変えてしまいました。ビール好きなドイツ人は5年後にゲルマンビール工場を建設し、ここでビールを製造したのです」
それで青島ビールが出来上がったのであった。青島ビールはドイツ人が中国で作ったビールがそもそもの発祥であったのだ。
それにしてもガイドの説明通り、旧市内はドイツと中国の建築文化が混ざった不思議な街であった。
「旧市街は侵略の歴史ですし、建ててから年月が経過していますから、ここをすべて壊してしまおうとしたのですが、旧市街の観光価値を認識したらしくて、壊さずにして田園地帯を新市街地に決定したのです。
友人と私はドイツ総督の屋敷や、旧市街の不思議な街並みを楽しんだ。
「青島ビール工場の見学ができますよ」
ガイドの案内に我々は「行きましょう」と張り切った。
とても清潔な工場で、ドイツ時代からの歴史が刻まれていた。ここはビール工場であり、ビール博物館でもあった。
コースの終わりがレストランになっていて、入場券がビールとの交換引き換え券にもなっていた。工場で飲んだ生ビールは適当にホップも効いていて旨く、日本で飲む青島ビールとは別物であった。
この博物館で私は青島ビールの不思議がすべて解けた。
1914年、第一次世界大戦で、それまでドイツが租借していた青島の租借権を日本が獲得することになる。それから1945年まで大日本麦酒がこの麦酒工場を経営することになる。
日本で飲む青島ビール独特の味は、エキゾチックさを出すための戦略であり、同時に日本のビールと味の上でバッティングしないための戦略であると、私は理解した。
それほど工場で飲む生ビールは旨かった。
ホテル前の通りは滑走路になるような幅の広さと、途中に何ら障害物がない驚くべく道路になっている。この道路の向こうに海鮮料理があるとその日本人は教えてくれた。
行きは大きな百貨店を見て回り、大きな交差点を渡った。そこから推薦の料理店を目指した。
このレストランの一角に北朝鮮が外資を稼ぐための料理店があった。我々はここで北朝鮮を確実に体験した。
広い店舗に客は我々だけであった。一番高額な焼肉コースを注文したのだが、カチンカチンに冷凍された、透ける薄さのコロッケサイズの肉が数枚出てきた。肉はえびぞりになっていた。ポテトチップを連想いただければイメージは掴める。表情がない美女軍団の女性が金属の皿に反り返っている肉を鉄板の上に置いた。韓国によくあるステンレス製の皿ではなかった。薄い肉は氷が溶けると鉄板にこびりついた。
なぜかとてつもない恐怖感が襲ってきた。ここはうまそうに、決して文句を言わずに食べようと、こびりついた肉をはがして口にしたが表現しようがない初めての味であった。友人の顔もこわばっていた。我々は急ぎ、お金を支払って飛び出した。これは北朝鮮体験ツアーだと思った。我々は青島で北朝鮮を確実に体験した。
それから一番混んでいる海鮮料理の店を選んで料理を注文した。大いに食べて、飲んで日本円換算で、二人で5000円程度であった。天国の気分であった。
その代わり、帰りは地獄を体験した。
料理店の華やかなネオンが届かない場所にくると夜の帳が下りて、あたりは真っ暗であった。我々はホテルを目の前にして滑走路のような通りを横断しなければならなかった。
歩行者用横断歩道と信号があった。青になったので渡り始めると四歩ほどで青信号が点滅を始めた。同時に横断歩道から約1メートル手前に停止していた大量のクルマが一斉に動き出した。我々は元に戻ろうと思ったが戻れなかった。クルマの洪水は怒涛のごとく押し寄せてくるのであった。動いたら跳ねられる。我々はクルマの洪水の中を立ち尽くすしかなかった。
長い時間、信号が変わるのを待って全力で走ったが、まだ道路中央に到達するはるか前にまた信号が点滅を開始した。クルマが再びポロロッカのような激流で押し寄せてきた。
我々は4回も道路の真中で信号待ちをしたことになる。翌朝見ると、大きな交差点でも人は信号を無視をして横断歩道を歩いている。
中国は儒教の国であったはずが、共産主義と文化大革命は人間を変えた。
中国は人間を粗末にする国ではなく、人間を無視する国になった。金持ちは貧乏人を無視し、強いものは弱いものを無視する国である。愛の反対語は憎しみではなく、無視・無関心である。中国に欠けているものは弱きものへの配慮。これに尽きる。
ホテルに帰ってホテルを仕切っている日本人にこの話をすると、「夜にあの信号を渡ったら命が幾つあっても足りないよ。よく無事に渡れたね。ドライバーはあんなところに人がいると思ってはいないよ。運がよかったね。渡る時は大きな交差点だけ。気をつけてよ」と真顔で言った。
それから、「なんで大きな交差点ならいいか分かる?交差点は左右にもクルマがあるでしょう。だから赤信号も青信号も同じ時間だけあるの。そこをかいくぐって人間が渡るのよ。信号は人間のためにあると思ったら間違い。信号はクルマのためにあるのよ」と付け加えた。
別の日本人観光客が話に参加した。「オリンピックの時でも同じなんでしょうかね」
「知らない。なんとかするのでしょう」と表情を変えずに件の日本人は答えを返した。
社会には一定のルールが必要だ。この歩行者信号はルールではない。誰もが自分のことだけしか考えていない。弱い者は無視される。だから弱みを見せたら中国ではお終いなのだ。
私は華僑の夫人と話をしたことを思い出した。「日本人は法律という網を見るときは掛かった網そのものを見るでしょう。中国人は網と網の間の隙間を見るのよ。この喩え話がわかりますか」
日本人はやっていけないことだけを忠実に守るが、中国人はやっていけないことを引き算して、残りは全部やってよいと見る意味であった。
写真は真実だけを写すと思ったら大間違いである。トリミングという化け方が写真には備わっている。翌日は海岸にでた。シドニーを思わせる風景であったが、庶民は岩場に降りて食事の材料を採集していた。風景がアンバランスでなじめなかった。これがどこでも見る中国の原風景である。
我々は海が見えるレストランで食事をしながら色々と話した。
「中国はいつ来ても勉強」「命がけの勉強」
二人は心の中を話さない。二人は大人だから。旅の途中で口にしたら、旅はお終いにした方がよいから。しかし二人は心の中では同じことを考えている。中国に来るたびに必ず不快なことにぶつかる。それがすべて一つのキーワード『人権無視』で結ばれると。二人は語り合わない部分で親しくなっている。同じことを考えていると信じているから。
「次は西安でも行きましょうか」話題は次の旅行に移っていた。「青島ビールの謎が解けて、これはよかった」「ドイツの街並みもよかった」「チンタオは美しい街ですよ」
2泊3日の青島は実質2泊2日の旅になった。話題は尽きず、日本とは味の違う大瓶の青島ビールは幾本も空いた。昼食の積りが夕食の時間に移っていた。「どうします?もう食べられませんね」「ホテルに戻って寝ましょうか」
二人は中国に慣れてしまっているのかもしれない。慣れてくるとあらが見えてくるものだ。外に出ると夕方の海風が心地よかった。