水戸黄門の末裔で公爵徳川圀順(くにゆき)、侯爵細川護立、鳩山一郎の弟鳩山秀夫、田中實、三井弁蔵などが軽井沢にゴルフ場を造成しようと企画をしたのが昭和5年、そして8人の設立委員会が、お金を借りて約50万坪を購入、半分を別荘地として分譲し、その利益で残りの半分をゴルフ場とした。こうして昭和8年に軽井沢ゴルフ倶楽部が誕生した。
後に白州次郎が理事長となった名門ゴルフ場である。審査が厳しいことで有名で、堤義明が入会申し込みを断られ、それがきっかけで東西南北4つのコースからなる72ゴルフ場を造成したという話は真偽の程は知らないが軽井沢ではまことしやかに語られている。
軽井沢ゴルフ倶楽部周辺の分譲地は、ゴルフ場を運営する財団法人軽井沢南ガ丘会に倣って南ヶ丘と名前が付いた。
当時は旧軽井沢が軽井沢の中心であったので、旧軽井沢の南に位置する丘ということで南ヶ丘の名前が付いたのである。
そんなわけで南ヶ丘は、大きな敷地に大型別荘が目立ち、他の別荘地と一線を画して、旧軽井沢・鹿島の森、愛宕などに次ぐ高級別荘地となって政財界、そして芸能人の著名処が別荘を建てている。正田家もここ南ヶ丘に別荘を持つ。白州次郎が住んだすぐ近くである。
軽井沢に住む友人と二人で、木漏れ日が差している南ヶ丘を一時間ほど歩いた。旧軽井沢と違って観光客がサイクリングをしない南ヶ丘にはざわめきはなく、鶯やカッコウの鳴き声が湿った空気を震わせてさわやかに響き渡り、森は静粛としていた。
友人から、「今頃の軽井沢がよいからきませんか」と、メールが届いた。週末の一日はアグリッシブに動こうと決めている私は、二週連続して軽井沢へ行くことなどまったく苦にならず、いそいそとクルマを飛ばして一人軽井沢へ出かけたのであった。まだ観光シーズンに入らない高速道路は思いのほかクルマがなく、物足りないほどあっけなく軽井沢へ着いた。
高速を降りてから和美峠を回り軽井沢へ入った。友人とは南ヶ丘で落ち合い、そして散策をした。ここでは表札を見て飯田とあればあの飯田さん、中内とあればあの中内さんと思って間違いはないよと友人は言い切った。南ヶ丘はかくのごとく生い立ちも育ちもよい別荘地である。そのせいかここ2年で地価は倍増した。観光客がひしめく旧軽井沢を嫌って南が丘に移りたいと考えている別荘族が増えているらしいが、ここは物件を手放す人がいないと友人は語った。
それからイタリアンレストランで遅めのランチを食べて二度目のコーヒーを丸山珈琲で楽しんだ。そういえば軽井沢で大手不動産業に勤務する友人からも、離れ山通りに自分の顧客がフレンチレストランを開店したから案内すると誘いを受けている。ヒマラヤハウスにも欲しいKANTAがある。20代に親しく付き合った画家大島康紀氏が浅間の山麓に馬を飼って暮らしている。
旅はどこでもいつでもそうだが、人がそこにいることで楽しみが増える。軽井沢はクルマでも新幹線でもすぐに行けて、そこに幾人もの友人がいる。この日、私はとんぼの湯に浸かって白樺台の浅野屋でパンを買い込み、浅間山麓で採りたての高原野菜を破格で買った。次は軽井沢の美術館巡りをしようか、思い切って草津温泉まで足を伸ばそうかと、帰路の車内でショパンのノクターン集を大音量で繰り返し聞きながらも、もう心は次の予定を組んでいるのであった。