私が初めて台湾を訪れたのは31歳の時である。
松山空港から外へ出ると、南国の湿った独特の匂いがする。家族はみなオートバイで移動する。一台のオートバイに家族5人が乗るのは普通であった。
オートバイの先頭に長男が座る。ここはオイルタンクの上である。続いて一家の主が座ってハンドルを握る。主の背中に次男がピッタリと吸い付くように、父の背中から手を回して主を抱きかかえるように座る。次男を夫の背中と挟むようにして母が座る。母の背中には三男がおぶい紐で背負われて乗っているというのが5人乗りのパターンである。
町には反共と大きく掲げた看板が目立ち、政府の建物には反共の赤文字が、大きく書かれていた。「梅花」がいつでもどこでも唄われていた。
寒い冬に美しい花を満開につける梅の花は自分達の境遇に似ているという歌である。
自動車優先の社会で人身事故は絶えず、死んでも50万円くらいしか保障はないから気をつけてくださいと現地のガイドは声をあげて叫んでいた。
タクシーといえば、ぼろぼろで運転手は素足で急発進、暴走、急停車運転を繰り替えしていた。私はこの運転方法を殺人運転と呼んだ。
そんな風土だから事故は絶えず、一家の主が交通事故で収入を失うと、年頃の娘が苦界に自ら進んで身を投げる。金銭価値や為替レートから生じる台湾人にとっては膨大な収入を目当てにして、喰えない親戚中が頼って集まってくる。娘は一層生きがいに燃えて稼ぐという構図が街のあちこちで見受けられた時代である。
私はシンガポールから台北に入ったのだが、エレジー(悲歌)が似合う台湾人は溌剌としているシンガポーリアンと好対照と思った。
しかし今は違う。台湾人もシンガポーリアンも区分けすることができなくなった。どちらも脚が伸びて、英語を話し、堂々としている。国が豊かになったのである。
それから私の訪台回数はゆうに50回は越している。
前回は2泊3日で友人の見立てで美味い物を食べようと台北に行ったのだが、美味い物を食べ続けることはできない。友人はフルフルに毎食、これでもかといわんばかりにコースを決めたものだから、私は次第に食べ物が口に入らなくなった。
友人との約束で私の役割は観光ガイドであった。
2泊だと正味ゆっくりできるのは一日である。私はこの日の午前中を淡水の古い街で決めた。
昔は淡水へ行くにはタクシーを飛ばすしかなかったが、いまはモノレールのような列車があって約40分足らずで、淡水に着く。それからねずみ道のような細い路地を潜り抜けて商店を楽しんだ。魚売りや貝売りが並んでいて楽しい。
文化が熟成すると、それはそれで見て楽しいものだ。混ざってもおもしろいし、単一文化が熟成してもおもしろい。
淡水にある龍山寺は台北と比べると狭いのだが密度が濃く、この島の人々の、信心深さのパワーに驚く。この善男善女は悩みがあるとここで占い、迷いが生まれるとここで祈り、現世の利益を信じてまた祈る。人の事は関係ない。自分と親族のことだけを祈る。こうしてお寺はお供え物だらけである。僧はお供え物で生きているとしたら日本より健全といえる。
食事を担当する友人は、淡水にはおいしい店はないとガイドブックだけの情報で言い放ち、帰りに圓山大飯店、金龍庁で飲茶を選んでいた。
淡水に旨い海鮮料理店があるのにと思いつつも、お互いの担当領域に口を出さない約束であるし、「確かにグランドホテルの飲茶はおいしい」と笑顔で答えた。
ところで台湾は何度目?私の質問に友人は「初めて」と答えて堂々としていた。恐るべき初心者であった。