外の秋ばかりに気をとられていたら、我が家の秋もここまで進んでいた。渋柿の方は熟して幾つも落ちていたし、高木に生る小粒の甘柿はしっかりと熟れている。まもなく冬を迎えカラダに栄養を蓄えなければならない小鳥たちにとって格好のごちそうになるだろう。人間の世界も世知辛い時代を迎えているがせめて小鳥の食べ物くらいは残していこうと、そんな気持ちを大事にしたい。
気の短い一輪の山茶花が冬を待たずして満開になっている。山茶花が咲くたびに私は京都の詩仙堂を思い出す。
植物はなぜに四季に花を咲かせるのか。人間と一緒だよと言われれば反論する術はない。
植物の営みが動物と違うのは動かないこと。だから花は美しい。美しいのは生きるためであって種の保存のために命がけでなのである。昭和天皇が雑草という名の植物はないと雑草と言った侍従をしかったそうだが、悲しいかな。私には植物の名がわからない。だから私も雑草というしかない。
しかしなんと美しい花であろう。けなげに花を咲かせている植物を見るといとおしくなるのは、暮れ行く秋がそうさせるのであろうか。一年草は種を残して枯れていく。やがて庭師が入って木々は剪定される。名の知らない植物たちは、むしりとられてきれいさっぱりと地球上から消えてしまうのだが、どっこい!種はしっかりと生きている。こうして写真に残しておくと一時一所に生の喜びが輝いていることが分かる。
私は花がいくら美しく咲いたとしても受粉の手伝いをしては上げられないが、きっと私が仕事に出ている時に、虫達がせっせと受粉を手助けしていることだろう。こんなことを思うと我が家の庭にも大宇宙が存在していることをうれしく思うのである。
庭に出るとワン公が愛情を欲しくて体を摺り寄せてくる。私は精一杯の愛をワン公に注ぎながら暮れ行く秋を楽しんでいる。人生は一回限りとはよく言ったものだ。若いときからそんな言葉を使っていたような気がするが、人生はまさにやり直しがきかないことを肌で分かったのは最近のことである。だから一日を精一杯に生きる。その方法しか、他に納得できる術はないのである。