島尾敏雄は精神を病んだ妻ミホと二人の子供を連れてミホの故郷である奄美大島へ移る。島尾は鹿児島県立図書館奄美分館の館長を勤める。
図書館には島尾文庫があって島尾敏雄の写真とこれまで出した本が貸し出されている。
図書館の敷地にあるこの家が、島尾家族が20年間暮らした住宅である。
図書館の敷地には島尾敏雄文学碑が建立している。ミホが信心していたキリスト教の洗礼を受け信者となった敏雄は、この文学碑に、「病める葦も折らず、けぶる灯芯も消さない」との聖書の一節を残した。
図書館の門を出て大通りにでる手前、初めての十字路を左折すると古田町マリア教会がある。敏雄は熱心にこの教会に通った。
やがて島尾家族は鹿児島に移り、敏雄は死を迎える。敏雄の死後、ミホは名瀬に戻るがそれから20年余りを喪服で通したという。やがて島尾ミホも小説を書くようになり作家のジャンルに名を連ねるようになる。
ミホは2007年に名瀬の自宅で一人静かに死去。その死は虫の知らせで訪れた孫娘の島尾マホによって発見される。葬儀は島尾敏雄が洗礼を受けた名瀬の聖心教会で行われた。
私は帰京してから「死の棘」と「死の棘日記」をていねいに読んだ。それから息子島尾信三の「月の家族」を読んだ。この本は奄美大島で暮らした時代をエッセーにしたものである。
私は文学者ではないから島尾敏雄の業績を論評する立場にない。島尾敏雄が島尾敏雄として存在する唯一のターニングポイントは、彼が加計呂麻島へ第18震洋隊の隊長として赴任したことに尽きる。この事実がその後の運命を定義付けた。だからこそノロの家系を継ぐ村長の娘ミホとの出会いがあった。ノロの家系であったからこそミホは極限の壁を破って精神分裂症になった。その経験が小説家島尾敏雄の代表作「死の棘」を生んだ。ここで自分の罪に目覚めた島尾はミホの壊れた精神に同調して生きる。贖罪とは犠牲や代償を捧げることによって罪過を償うことである。
島尾の20年に及ぶ奄美大島での贖罪の暮らしが「琉球弧」なる言葉を作り、「ヤポネシア」の造語を作る。その背景には南島文化の深い研究があったことはいうまでもない。
島尾敏雄は奄美の人にこよなく愛され、震洋隊基地跡に文学碑と、家族の私墓を作らせた。鹿児島県立図書館奄美分館はいまの近くに大きな近代的建築物となって近々開館の予定であるけれど熱心な島尾のファンによって、これまでの旧館の取り壊しは反対されてとりあえず当面は保存する方向で話はまとまっている。すべてのスタートは奄美大島から始まっている。もしも彼のターニングポイントが奄美大島でなかったら島尾敏雄は別の島尾敏雄になっていたことであろう。