奄美群島は奄美大島、加計呂麻島、予路島、請島、徳之島の北半分が一つのまとまった文化圏にあると思っている。それは平家の文化と、琉球の文化、鹿児島の文化が程よく混ざっているというところである。徳之島南半分から与論島までは、琉球の文化圏に近づく。逆に奄美大島から北はトカラ列島を経て鹿児島文化圏になる。喜界島はどうなのだろうか。もちろん奄美文化圏ではあるのだが奄美大島とは相当に違う気質ではないか。一つは島そのものが珊瑚礁の隆起で出来たものであること。二つは、琉球が支配したときに琉球の人が残って島を作ったせいか、気質が奄美大島と違うことなどが素人感覚であるが直感的に感ずることである。
前の笠利町助役であった前田さんの家を訪ねた。丹精に育てた南国の木々は手入れがされて本州にはない独特の庭園であった。
夫人が庭から島バナナをとってガーデンテーブル置いた。これまで幾度も食べたことがある島バナナだが、熟していながら新鮮で、美味であった。
続いて柿が食卓を飾り、かんきつ類が食卓を飾った。どれも庭で熟した果実である。前田さんは島の生き字引のような人で、どれほど教わったことか知れない。
夜は泰さんの自宅でパーティが行なわれた。学校関係者やたくさんの人が集まった。
奄美の歌姫、中村瑞希さん母子も駆けつけてくれた。彼女はNHK主催の民謡日本一に輝き、次いで翌年に開催された民謡日本グランプリ大賞に輝いた実力の持ち主である。若手のホープとして将来を嘱望されていて、大手レコード会社から声が掛かっているが本人は欲がない。笠利唄(かさんうた)の名手である。
奄美民謡は世界で奄美群島奄美文化圏にしか存在しない。唄は全部で約百曲。これに約10倍の歌詞がある。新民謡は別として奄美民謡は新しいものでも400年前、古い民謡は千年以上も前に遡る。千年以上前とは平家が落ち武者が流れて奄美大島に上陸した辺りのことである。この頃の唄は神唄である。沖縄から三味線が入ったのはいまから140年前で、その前は手拍子で唄われたいたという。奄美の民謡は譜面がない。すべて口伝である。表声から裏声に瞬時で移る歌唱方法は独特であるが、この民謡の最大の魅力は即興の掛け合いで歌が進んでいくところ。このかけあいは万葉時代にあったもので今は奄美大島と秋田の一部に痕跡が残っているに過ぎないという。以上は奄美民謡の大御所である朝崎郁恵さんの受け売りである。
奄美の人は平家の文化と琉球の儒教文化が混ざって、勇ましい名前が多い。泰さんの名前は勝麿(かつま)という。泰さんを知りえたおかげで私は奄美大島すべてと親しくなった。人は人によってしか磨かれないという。私は泰さんに磨かれている。私は人生で一番大切なものは出会いと別れであると信じている。一人の人との出会いがこれほどの体験に人を誘う(いざなう)のである。
この島の美しさは観光コースをぐるりと回って鶏飯を食べ、民謡酒場で黒糖焼酎を飲んでくるだけでは分からない。今日も奄美大島はその名の通りひっそりと美しく光り輝いている。