奄美大島から帰京したのは水曜日の夜半であった。濃密な時間を過ごしたせいかここにある身体と、ここにまだ戻っていない脳とのすれ違いがあって木曜日と金曜日はすぐに過ぎてしまった。金曜日にまた軽井沢の知友からの携帯メールで、「夏タイヤで来られるのは、今度の週末が最後と思ったほうが良い」と知らせがあった。「いま軽井沢はどんな状況なの」と返信を打つとすぐにカラマツが落葉して道路が金色に輝いている」と、返事がきた。仕事がたまっているので週末は仕事をしようと思っていたが、道路が金色に光っていると聴けば、そのうえスタットレスを持たない私は4月までクルマで軽井沢へは行けないとなると、それでは週末に日帰りをしようかと思い立った。家内は新蕎麦を食べたいと言い、一緒に行くこととなった。
これが金色に輝く道路である。金色というより桃色に見える。落葉松は太陽の光を浴びて金色に輝くが、枯れて葉が落ちると桃色に染める。
これが道路を桃色に染める正体である。落葉松は油脂が多く腐葉しにくい。カラカラの枯葉にならないで道路に居座っている感じだ。
何処にも休憩しないでまっしぐらに軽井沢へ向かった私達は、然林庵で珈琲休憩をとった。ここはもう紅葉はなく、燦燦と輝く太陽もなかった。
それから追分宿の旧中山道沿いにある「ささくら」へ行って新蕎麦を食べた。ささくらの前は文豪が泊まったことで有名な旅館油屋がある。軽井沢住人はささくらを推薦する。東京人は長野の蕎麦汁を評価しない。蕎麦は東京の方が旨いに決まっていると言うが、軽井沢住人は蕎麦は長野に限ると言う。家内は東京の蕎麦を好み長野の蕎麦汁を出汁の味が特定できてよくないという。ささくらはかつて万平ホテルの社員から紹介を受けたもので、いつでも店内は混雑している。味覚は絶対的なものだから、ある人が特別においしいと評価しても別の人がおいしくなければやはりそれは美味しくないのだと言う説がある。私は味覚は相対的なものであると思う。味覚にはルールがある。東京の旨い蕎麦屋に出る汁はだしを特定できない。軽井沢の蕎麦屋では、こうしていつも蕎麦汁談義に花が咲く。
室生犀星の弟子は堀辰雄である。堀辰雄の弟子は立原道造である。そこに川端康成や芥川龍之介が関係する。この人たちは軽井沢をこよなく愛した文学者である。
ここ追分は信濃追分の追分である。今は軽井沢町追分だが江戸時代は、軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、そして追分宿であった。追分には本陣があって、参勤交代の殿様が泊まった。大きい行列では追分宿に全員が泊まれないから仮宿などの宿があった。それはいまも地名で残っている。
新たに作られた本陣の門をくぐると堀辰雄記念館がある。堀辰雄は結核で夭逝したが、夫人は今も健在である。
知友のいうとおり、この小旅行が今年最後の軽井沢になった。その後すぐに雪が降り、気温は氷点下6度くらいまで落ちた。その後軽井沢アウトレットのプラチナセールが行われたがスタットレスを履かないで高速道路を飛ばしてきたドライバーは高速道路を出てから降雪に出会いスリップ事故を多発した。私達は堀辰雄記念館を最後にして、帰宅へのハンドルを握った。
来年4月までクルマで軽井沢を訪れる事はない。