地域起こしと言えば普通は地産品や自然を紹介し顧客を呼ぶものと相場が決まっているが、勝連町(現うるま市勝連)はなんと人間起こしをした。それは勝連町の中高生に対して「あなたは何者か、何処から来たのか、どこへ行くのか」と付き付けたのである。
ライフスタイルが多様化し、それぞれに価値があると認めている現代において、自己のアイディンテイティを確立しなければ社会に根をおろして確かな自信を持って生きていくことは出来ない。勝連町はこれから大人になる子ども達に自己のアイディンテイティを確立させることが最大の地域起こしと考えたのである。
勝連町には13~14世紀に築城された勝連城(かつれんぐすく)がある。私もむかし勝連城に行ったことがあるが山城で急勾配の坂を登ってようやくたどり着いたことを記憶している。
ここの第十代按司(あじ・・城主)が阿麻和利である。しかし地元では名君と誉れ高い阿麻和利も琉球正史では琉球国王への逆臣として悪者にされている。その話をかいつまんで話すと次のようになる。
百姓の子として生まれた阿麻和利は幼名を加那(かな)といった。体が弱く山へ捨てられたが蜘蛛が網を張って餌を捉え生きていくのを見て自分も生きていこうと決心をする。やがて勝連の村落にたどり着く。加那は村人の手伝いをしながら真面目に働き村人から信頼されるようになる。あるとき、勝連の漁民がやりで魚を突いているのを見て、蜘蛛の網を思い出し、網を作って魚を大量に獲ることを提案。ますます信頼され尊敬されるようになった。(上の写真は阿麻和利のポスターから)
当時、勝連城には茂知附按司が農民から高い税を取り悪政の限りを尽くしていた。そこで農民は加那が按司になればよいと願っていた。ちょうど城から加那のうわさを聞いた家臣が来て、加那を馬の草刈役に任命した。そこで加那は、城に上がることができた。あるとき加那は、農民に闇夜の晩たいまつをつけて城に向かって歩くように命じた。(上の写真は阿麻和利の妻、百十踏揚:ももとふみあがり:パンフレット裏表紙から)
加那は茂知附按司に、敵軍が攻めて来たと知らせた。酒を飲んでいた家臣は皆逃げ出した。茂知附も城から闇夜の外を見るとそこには無数のたいまつの行列が見えた。慌てている茂知附を加那は城の外に放り投げて殺害し、自分が新しい按司になった(というのである)。
問題はこれからで、加那は阿麻和利と名前を変えて勝連城の按司になり、貿易も盛んにして琉球国王(首里城主)にも負けないほどの力をつけてきた。阿麻和利は琉球王国の国王である尚泰久から娘百十踏揚を嫁にするまでに実力者になった。
やがて琉球を統一する野望を持った阿麻和利は中城(なかぐすく)の按司護佐丸が謀反を起こすと国王に忠言し、自分が大将となって護佐丸を滅ぼした。(上の写真は護佐丸もう一つの城である座喜味城)
次には妻の父が住む首里城を攻めようと準備をしたが、この計画を夫 人の連れ人、大城賢勇に知られた。、大城は、百十踏揚と一緒に勝連城から逃げ出し、中山(首里城)に知らせた。二人から謀反の真相を聞いた国王尚泰久は、阿麻和利の口車に乗って護佐丸を打ち滅ぼしたことを悔やみ、城を固めた。一方、阿麻和利はこれで陰謀が露見したと、急ぎ首里城を攻めたが、首里城の守りは固く、逆に勝連城まで追撃された。そして阿麻和利は護佐丸の二人の子どもによって殺害された(というのである)。これが琉球正史である「中山世鑑」、「琉球国由来記」「琉陽」に記載されている(らしい)。このようにして阿麻和利は国王に弓を引いた野心家であり逆臣であるということが定説となっている。
しかし、勝連町はこの定説に疑問を持っていた。勝連では阿麻和利は偉大な名君であるという話が先祖から伝わっている。それを裏付けるようにおもろ草紙では阿麻和利を褒め称えている。勝連城で戦いがあったことを印す証拠は何一つでていない。戦いの痕跡さえないのである。さらに貿易が盛んであったことを示すように中国の陶器が勝連城跡からたくさん出土している。
誉れ高い地元の城主が逆臣であるという汚名は、首里城によって作られた勝者が自らを正当化したものではないかと仮説を立てたのである。
この疑いは正しい。歴史物語はすべて時の権力者か後世人の作り話である。過去には事実は無数に転がっているが、それが真実であるかどうかを証明する人は誰もいない。現代の裁判を見てもよく分かる。真実を証明できることはいかに難しいかを私達はいろいろな事件の判決で知ることができる。上の写真は琉球国王尚家の墓地である・・玉陵:たまうどぅん・・権力の大きさを測り知ることができる。
繰り返すが歴史物語とは、肖像画を描くお抱え絵師が実物よりはるかに立派にたくましく美貌を添えて描くことと同じようなもので、時の支配者に都合よく書き残したものか、後世の作家が歴史上の人物を使って資料に書かれていることをつなげて仮説を立てたものにすぎないのである。だから勝連町は最高の選択をした。亜麻和利の新しい歴史を作ろうと。彼の不名誉を拭い、名誉回復をしようと。なんと素晴らしい選択か。まったく正しい。歴史を捻じ曲げてという人たちがいたらその考え方が間違っている。
嶋津与志氏(しま・つよし:本名大城将保:沖縄戦史研究家)が原作を書き、平田大一氏(ひらただいいち:TAO FACTORY代表理事 南島詩人にして舞台製作演出家)が演出をした。こうして現代版組踊「肝高の阿麻和利」が完成したのである。
驚いたことにこのミュージカルを地元の中学生と高校生が奏で、歌い、踊り、演じることになる。
(上の写真は玉陵の中庭にある碑:誰はこの墓に埋葬してはいけないと書いてある。琉球王朝にも嫉妬と嫌悪があったようだ)
1月11日の舞台はハワイで公演したものをそっくりそのまま演じた。ハワイ凱旋公演であった。英語と日本標準語と沖縄方言が飛び交った。