沖縄に知友がいる。知友とは知り合いの友というとするなら、この人は知友ではなく、私にとっては心友と言うべき人である。この人の父は30代前半で部下300余名を抱える満鉄、泰(タイ)課の課長であった。インドネシアで終戦を迎えると、インドネシアを植民地としていたオランダ軍が再びインドネシアを支配下に置くべく軍を派遣した。この人の父は部下を引き連れ隠し持っていた武器をインドネシア軍に渡して植民地からの独立を助けるために一緒に部下共々身を投げ打ってオランダ軍と戦って勝利に導いたのである。この話は有名な話で太平洋戦争は侵略ばかりではなく東南アジア諸国の独立に寄与した一面もあるという論拠になっていることであるが、そのリーダーがこの人の父である。
インドネシア政府は独立を勝ち取った時に、油田の権利を一つ贈呈するから受け取って欲しいと感謝を表現したのだが、この人の父は、その油田はインドネシア国家の発展に使いなさいといって申し出を断って帰国し、艦砲射撃とそれに続く地上戦で荒廃の地と化した戦後の沖縄を立て直すために一身を捧げたのである。その話は伝記になっていて広辞苑ほどの分厚い本が出版されている。八重山諸島から奄美群島まで、琉球弧と呼ばれていたこの美しい島並みで、父の息が掛からない経済活動を探す方がむずかしい。本人に私欲は無くすべては公のために尽くした人であったことが、この伝記を読んで私は知った。
いつぞや兄とカンボジアへ行ってきますと話をしていたが、カンボジア政府が独立周年式典で父の功績を表彰しシアヌーク殿下よりの叙勲授与式に参加するためとあとで教えていただいた。兄とはその当時の沖縄県知事である。
この人は石油エネルギー会社を経営していて、昨年の石油価格乱高下ではずいぶんと頭を悩ませているだろうと思っていた。案の定そうで、プロパンガス部門では顧客先を全軒、値上がりのお願いをして回ったということであった。石油価格が落ち着いた年末に上京し、久しぶりに昼食をともにした。
私がこの人を心友と呼ぶのは意味がある。彼とは語らない部分で通じ合って親しくなれているからである。歓びも哀しみも痛みも何もかも、お互いに語らないがお互いに分かり合ってお互いを労われる。その関係に達するまで幾つもの議論があった。心友は私の著書を幾度も読み返し、私の考えを確かめた。私はその議論を通じて彼を確かめた。私は沖縄に関しての歴史論を彼とよくした。彼はそれを通じて沖縄への思いが本物かを確かめた。こうした年月が10年も続き、やがて私達はあまり議論をしなくなった。何も隠さず心を広げて、お互いがありのままに受け止められるようになった。私はこのような友がいることに誇りを感じている。
積もる話は尽きなかったが、彼は私の目を見つめて突然に言った。「きむたかのあまわり」に招待しますので1月11日に沖縄へいらっしゃってください。
「きむたかのあまわり」。まるで呪文のような言葉が、私の体の中を吹く風に乗って抜けていった。「肝高の阿麻和利」です。志が高い阿麻和利という意味です。阿麻和利は服部さんもご存知でしょう。勝連城第十代の城主、勝連城最後の城主です。地域起こしで勝連の中高生が演じる琉球ミュージカルです。私は4回観ましたが、4回とも泣いてしまいました。心友はこう説明をした。