桜も早く咲き誇りたいのであった。待てど暮らせど咲かない桜は、咲くに咲けない駕篭の鳥であった。東京もようやく春の光になって一気に桜の花が咲いた。平安の時代から日本人は桜を愛でた。世の中に桜の花がなかったとしたら春の心はもっとのどかなものであったろう。ここまで歌を詠んで故人は桜を愛でたのである。
この桜並木は播磨坂にある。冬になるとイルミネーションを身体中に巻いて青白く光っているがいまはそんなことを考える人はいない。
この桜は三井家の桜である。後ろの建物は蔵である。三蔵が並んでいる。
都会の桜はなぜに物寂しいのか。私はいつも東京の桜を見るたびに物寂しく映るのが不思議であった。
都会の桜が物寂しく映るのは、散った花が土に還れないからである。都会は土の上をコンクリートやアスファルト、タイルや石で覆ってしまい、桜はどこにも居場所がないからである。
海に生きる物はすべて海に戻る。魚は死んだら身は溶けて海に還る。骨さえも年月をかけて海に戻る。地上の動物はみな土に還る。死んだら身は土になる。弱肉強食の世界では弱きものは強きものに食されて、強きものの身体の一部になる。都会の桜は土に還ることはできない。 石に落ちた桜は土に還ることも川を流れることもできない。風に吹かれて道路に吹き溜まり、コミとなって処理される。
祇園白川に咲く桜なら、京都の川に流れて溶けて川の水になることができる。
そうだ。花が一時一所にすべてを託しているのは、土に還れるからである。春の祇王寺に散った一輪の椿は、やがて土に戻ることができる。土に還った花は木の養分になって新しい命を育み新しい花を咲かせることができる。都会の桜は土に還れない。だから物寂しいのだ。
物寂しいのは桜である。桜がそう思っているから私に伝わってくる。まさに物の哀れの春爛漫である。
私は週末を使って単行本の原稿を推敲している。執筆が3週間、推敲で一週間掛かった。月曜日に出版社にメールで送って、それから次の新書版原稿に取り掛かる予定でいる。土にも海にも還れない人はどう生きたら一時一所にこの世のすべてを託することができるのか。
人は生きている間が花なのである。人間は循環しない。死んだ肉体は土にも海にも還れない。誰かに肉体を食させることもできない。だから生きていることが一番大事なのである。