嫁いだ娘達が揃って遊びに来るという話を土曜日の夜に帰宅した私に家内が告げた。明日は仕事があるから会えないといった。先週は地方出張もあり仕事の準備があって忙しくしていた。「たまには家にいなさいよ。こどもたちはあなたにも会いたいのでしょうよ」と、家内は私の言葉をさえぎった。
私は新緑の庭に出てふと明治30年生まれの父親を思い浮かべていた。最近は不思議なことに当に忘れていた昔話を思い出すことがある。あるとき老いた父親は思い出したように、「島根県に美保関って美しい小さな港があってね」と私に言った。すると横にいた母親が、「おとうさんは若い頃にそこに恋人がいてね。長崎から船で会いに行ったんだって」と、風景を重ね映した。父は自分の漁船で長崎から玄界灘を越えて美保関に住む恋人に会いに行っていたのだ。父親をそこまで突き動かしたものは何であったのだろうか。
明治維新はそれまでの武士階級を奈落に落とした。倒幕の立役者であった薩摩藩でさえも明治政府に抱えられたのはわずかであったのだから、徳川幕府の親藩である島原松平藩が明治政府に抱えられて優遇されるはずがなく当主以外は裸のまま仕事もなく放り出されたことになる。父の祖父や親は対岸の有喜という漁村に移った。父が若き頃漁船に乗って漁をしていたとは各の歴史が背景にある。明治維新とは思い返すに残酷な革命であった。
私は庭のベンチに座って、あの時老いた父親の心は遠く美しい入り江を持つ美保関に遊んでいるのかもしれないと思った。母親の一言は嫉妬に違いないと思った。大正時代初期に長崎から船に乗って会いに来る青年の話は小さな漁港ではきっと大きな噂話になっていたことだと思う。その女性がどのような人であったかは想像もつかないが、漁港で手伝う娘であったのなら、古い時代には許されない恋であったのであろう。
父は狭山の霊園で永眠している。父の恋人であった女性も美保関で生涯を終えているだろう。けれども目に見えない赤い糸は狭山の墓と美しい岬の墓を結んでいる。そう思うとなにやらうれしくなってきた。白昼夢に浸っていたら、「来たわよ」と、家内の声が庭にいる私の耳まで届いた。