セゾン美術館は軽井沢の千が滝奥深くにある現代アートを専門にした美術館である。この前を一度だけ道を間違えたことによって通ったが、現代アートは苦手であったことも理由で、セゾン美術館に足を運んだことはなかった。
知友と二人で東京からクルマをゆっくりと走らせてお目当ての美術館に向かった。東京では雨が降っていたが軽井沢は高い湿度で木々は濡れていた。だからセゾン美術館の森は殊のほか青葉が美しかった。
千ケ滝は西武の創設者堤康次郎(1889年生まれ)の手で開発された別荘地である。滋賀県生まれの堤は若くして軽井沢千ケ滝や箱根の開発に乗り出す。当時旧軽井沢は金持ちの別荘地として栄えた。堤は早稲田大学時代の大隅重信に頼み込んで名前を借りて、千ケ滝の地主から土地を買い受け、サラリーマンでも持てる別荘として売り込んだ。堤は旧コクドグループ、セゾングループの創業者である。
千ケ滝の名は千ケ滝という名の滝があることでつけられた地域の名前である。いまは軽井沢の4番手別荘地として有名である。言うまでもなく一番は旧軽井沢、二番は南が丘、三番は南原、四番は千ケ滝と言う説と、南平台という説がある。旧軽井沢は総てが一番ではない。一番にふさわしい場所は旧軽井沢の中でも限られている。千ケ滝が西武で運営されていることも言うまでもない。
さて、知り合いの画家は、「絵の下手な奴が抽象に走ったら見られたものではない。絵が下手だから抽象に走る奴が多いのだ」と言っていたが、私はこれまでそんな絵を見ていたのかもしれない。何点かは欲しくなるような良い絵があって、現代アートを食べず嫌いであることが確認できただけでも収穫であった。
軽井沢の山奥にある美術館をわざわざ行く人はよほどの絵画好きであろう。ここの美術館は相当に赤字であろうと知友と語りながら外へ出た。
私たちはせっかくだから千ケ滝を見ようとクルマを走らせたが、滝の駐車場から30分も歩くと聞いてそれなら止めようと断念した。
千ケ滝は浅間山とつながっている。浅間が噴火をしたらここの住人はさぞかし怖いだろうなと思いつつも、小さな人間が歩いている限り浅間山はどこにも姿が見えない。手が入った森には現代彫刻が幾つも置かれていたが、現代彫刻よりもロダンが似合うと知友は語った。私もそうだと思う。
これから8月まであらゆる生き物は軽井沢で生きている証と子孫を残す証のために生きる。8月末にはストーブが必要なくらい気温は落ちる。いまは新緑が少し色濃くなったくらいなのか。
私は知友から、よく軽井沢へきているけれどなぜと聞かれた。いつも続けていればいつまでも元気で続けることができるから。止めてしまったら億劫になる。行動範囲をキープしておかないといけないからと言い訳がましい返事をした。それに我が家からはすぐに関越に入れるから。首都高環状線を抜けないで行ける事はとても楽である。そして自然がよくなったからと三番目の理由を挙げた。知友もそれを理解した。
家に帰ると浅間山麓に暮らす画家からメールがきていた。
先日はアトリエまでお越しいただきありがとうございました。永い時を越えての再会を心より嬉しく感じました。最近歳のせいか一期一会にあらず、大切な出会いのあった人とは一期二会とか十会とか思ってしまいます。世俗を捨て孤高に生きようとしてみたものの、地元の人たちとすっかり仲良くなって、田舎暮らしを楽しんでいる次第です。昨日も小諸市の広報の手伝いでハイキングに同行、取材記事を書きました。高峰高原・池の平湿原を周って来たのですが、7~8月高山植物の花の競演、見ごろです。是非お出かけください。
山の暮らし、さぞ驚かれたことかと拝察します。が、懲りずに軽井沢まで来た時はまたお立ち寄りください。遅ればせながら御礼ご一報まで。
すぐに連絡をすると「いつ軽井沢へきますか」と画家は問うた。「いつでも」私は答えた。「それなら来週14日頃はいかがですか」
軽井沢の知友からも遊びにいらっしゃいと連絡を受けている。「分かりました。14日午後1時半にアトリエまで行きます。二人で高峰高原からあのあたりを走りましょう」私はそう応えた。
歳を経ると人が恋しくなると画家は言った。私もそうである。人生を閉じないで生きる。駆けぬける歓びは私の座右の銘だ。長野県佐久市の山奥まで一人で出かけ日帰りで帰ってくるなんて普段出かけ慣れていない人たちはいやなこったであろう。私は日常にそうした生活を組み入れているからまったく苦にならない。何度でも会いたいと言う人の心を無視することはできない。私も何度でも会いたいのだ。