折から低気圧が通過して、時折激しい雨が降った。大自然の只中に身を置くと雨の正体を目視することができる。いまは田代湖の近くだ。エンジンの回転数を4000RPMに維持したままマニュアルモードを細かにシフトし、まるでラリーカーのような勢いで約束の場所を目指した。北軽井沢での用事は終わって、私は画家の家を目指している。
144号線から湯の丸山に向って南下し標高2000メートルを超える湯の丸高峰林道を東へ進み、車坂峠を下ってチェリーパークラインをいっきに標高1000メートルの浅間サンラインへ転げ落ちるように下る。私は常にマニュアルシフトを切り替えて回転数を維持するようにして運転している。ヘアピンカーブが連続する下りで、ブレーキを一瞬踏んでクルマを瞬間停止させ瞬間的にハンドルを切って新たな進路を定め、そしてすぐに再びスロットルを踏み込む。家族から悪評高い私の運転手法は、一人でハンドルを持つと実に伸び伸びとしてバトルを展開する。久しぶりに山岳ロードを楽しんだ私はあっけなく画家の家に到着した。
画家は標高1050メートルの山間にある集落の廃屋を購入してすべて自分の手で修復した。840坪の土地にアトリエと住まいと作業場と馬小屋と馬場を作った。その才能はどこにあったのか。
私は画家の描いた絵の遍歴を知っている。それは画家の人生をトレースすることと同じことでもあった。若き頃、画家は亜魚(あお)と自分の名前を変えた。独特の青い色を作って好んで使ったからである。その当時の絵を私は一枚持っている。深い青い海にただよう鮫の絵である。やがてインドへ旅をしてから画家のキャンバスから青色が消えて、変わりにサリーの赤になった。それから金子国義張りの人物に画風は変わった。私は画家がたどり着いた画風に期待をしていたが、画家はたくさんの賞を取ったその画風を捨てて次は「信州」が絵に出るようになった。信州は画家のふるさとである。ふるさと回帰が高じていまの地、浅間山麓に本拠地を移した。
画家の絵の変遷は人生の変化とリンクしていた。なまじ画家を職業に選んだばかりに覆いかぶさってきた多くの試練を画家は逃げずにぶつかった。しかしその哀しみや歓びが心象風景となって自分の絵を変えていった。画家は苦しみを口にはしなかったがその代わり画風は心の中を雄弁に語っていた。
繊細な性格は何一つ変わっていなかった。しかし画家が人生を逃げて生きていなかったことは画家の顔つきを見るだけですぐに分かった。
股関節ギブスをして両足が開いたままの一人娘をいつも背負って病院に連れて行った画家は、真摯に人生を生きていた。自分の内部と向き合って描いた絵は一枚も売れなかった。生きていくためには生活の糧を得なければならず、しかたなく売り絵を描いた。売り絵とは画家が描きたい本来の絵ではなく大衆受けする絵のことである。あれも、あれも売り絵です。画家は馬小屋をわが手で改築した部屋に飾る絵に向かって、はっきり売り絵とレッテルを貼り付けた。売り絵を描くと売れた。自分が信じる仕事は売れず、心にない仕事が評価されて売れることは、まじめな芸術家にとっては存在を否定され屈辱なる人生を過ごすことと変わらない。画家を職業に選んだことによって生じる苦難に画家は、若い頃デザインの仕事をやっていたことで、良くも悪くも二足のわらじを履くことができたと述懐した。それが良いことか悪いことかは分からないと言葉を足した。画家としての人生を振り返ったときに、とても重く悲しい言葉であった。
それから画家はこれまでどう生きてきたかを自分の過去と抱き合うようにして語りつくした。その上画家は、精神の遍歴を7歳年上の私に報告するように語った。この会話こそが彼にとっては思いの丈をぶつけた白いキャンバスであったに違いない。一人娘の消息を訊ねると、嫁いだと言った。
「軽井沢からクルマで30分できます。旧道が混んでいたら1000メートル道路をまっすぐくればこの上の道路に出ます」画家は「また来てほしい。いつでも来てください」と言った。最後に「今日はとてもうれしい」と別れの言葉を告げた。
私は軽井沢へ戻らず小諸ICから高速道路に乗って帰路を走った。いつまでも画家のことが心から離れなかった。